ほんやくの日々
高橋聡
本厄というのは、なんとも因果な商売である。
実生活では縦のものを横にもしないくせに、活字と見ればすぐに横のものを縦にしたがる(横のものを別の横のものに変えることもある)。それが本厄者という人種だ。そもそも、ふだんから生産しているのがヤクだというんだから社会的には危険このうえない。ときどき自分でも「やくざな商売よ」などと口にするが、あながち謙遜ではなさそうだ。
本厄の世界の一部には古くからの徒弟制も根強く残っているが、しばらく前から電子計算機の導入が進んでいるというから、近代化が進んでいる部分もあるようだ。
本厄者は、組織の中で働く場合と、無所属の自由契約で働く場合がある。組織で働く場合、自分自身でヤクの生産に携わるかたわら、外注先からのアガリを点検することもある。本厄者ではあるが、組織に属している分、自由契約の場合より社会性は高いのがふつうだ。
無所属自由契約の本厄者は、もちろん会社には行かない。「自営業」と称して自宅でヤクの生産に励むのだ。言うまでもなく、彼ら自身がヤクの消費者でもある。ヤクが切れかかると、ぶつぶつと独り言を言いはじめたり、ときには大声で叫びだしたりするが、「ヤクチュウはなるべく避けたい」という声も聞くので、どうやらその自覚はあるらしい。「ヤクを寝かせる」という表現も見かけるが、生産品の熟成を待つこともあるのだろうか。
そのヤクの取引は、以前は直接のやり取りだったが、その後は平たい円盤状に加工して郵送するようになり、さらに最近では電子計算機を使った電話網上の受け渡しがふつうになった。ときどき耳にする、「納品だん」というのは、取引が無事に終わったときの符丁。取引の納期を必死で守るために命を削ることも珍しくない。納期を守れなければ信用をなくすのは、どのギョーカイでも変わらないのだ。
ヤクを納める相手は、企業のこともあれば政府関係、官公庁などのこともある(もちろん公然とではないはずだ)。官公庁の場合は入札案件になるのが一般的だというが、談合や、さらには癒着があったとしても驚くほどのことではない。官公庁では、電子計算機を使った自動本厄がだいぶ幅をきかせてきているので、値段の勝負はかなり厳しくなっている。自動本厄でできあがるヤクはかなり純度が低く、その粗製濫造ぶりは目に余るものがあるのだが、末端価格がかなり抑えられるため、納品先は純度に目をつぶってでも利用したがる風潮がある。
また、間に「斡旋業者」が入ることもある。ひとくちに斡旋業者と言っても、本厄のことをよく理解している良心的な組織もあれば、案件を流すだけで仲介料をせしめる安直な組織もあって、契約を結ぶ際には注意が必要だ。斡旋業者の取り分は、取引価格の半分ほどが相場ということになっている。ときには不払いなどという不始末を起こす斡旋業者もあるようだが、そんなときは、東京日本橋にある総元締めに訴えれば対処してくれるらしい。
聞くところによると、本厄者はジショが好きだそうだから、土地を転がすのも得意のようだ。電子ジショというのはおそらく、転売を電子記録上でだけやっているのだろう。そういえば、そのジショでは「串刺し」という行為もはやっていると聞く。何か所かのジショをまとめて売買することらしいが、表現がいかにも物騒ではないか。
さて、ジショを転がしながらヤクを生産する本厄という商売。ひところはだいぶ羽振りもよかったが、最近はまっとうな社会と同様、なかなか厳しくなっている。その大きい原因は、自動本厄が幅をきかせていることと、末端価格の下落だ。「本厄で食っていけるか?」というのが最近はあいさつ代わりになっているくらいだから、なんとも世知辛い。話のわかる、払いのいい客筋を見つけて価格を維持することができればまだいい。なかには多角経営に乗り出す本厄者もいる。
とはいえ、幸か不幸か、世の中からヤクの需要が絶えることはない。品質を落とさずにヤクの生産を続けていれば、本厄者の飯のたねは、少なくとも当分のあいだ尽きることはあるまい。