黙って準備をし、黙ってブースを出る

セランド 修子 (Naoko Selland)

どうやって通翻の経験を増やすかは、これは通翻訳者にとって永遠の課題だろう。通訳と翻訳で共通して言えるのは、他のすべての業種に通ずることで、つまり実力がものを言うということである。多少サービスが悪かろうが、客は美味しい食事、上手い美容師には確実に付く。実力を生む場数とは、アウトプットまでの時間がごく短い通訳にとって、より必須であり、正確な語彙力、ヒアリング、理解力、聞きやすいアウトプットに至るには、もう経験以外ない。

さてこの経験をどうやって増やすかを通訳だけに絞って言うなら、当たり前のことながら普段の研鑽と準備以外にない。1 に準備、2 に準備、3 に準備である。言い換えれば、今目の前にある仕事に集中する、ということだ。足元、つまり「今」という時間軸を固めて周囲の信頼を得るのである。

同時に長けるか逐次に長けるかだが、これも当然のことながら経験がものを言う。私は普段はデポジション(証言録取)での逐次が圧倒的に多いため、時折ブースに入ると自分の脳内の歯車が滑り出すまで、ギシギシと音をたてているのを感じる。訴訟の場面では、証人の語る一字一句をそのままに正確に 100% 訳すことが要求されるのに対し、シンポジウムなどの同時の場合、聴衆が聞きやすい流れるようなアウトプットが要求される。ある同時通訳者がその著書で、同時通訳は 100% を目指してはならず、スピードが速いなど難しい状況では 75%ぐらいをむしろ目指すべきなのだと書いておられた。私はもともと翻訳から通訳へと移行した人間なので、この本にはまさに目を開かれた。翻訳、あるいは一部の逐次では近くなれる場合もある 100% を同時通訳でも引きずっていると失敗する。ブースにおいては(あれも落としたこれも落とした)と思い悩むよりも、話し手が伝えようとしているメッセージの中核に意識を向ける方が成功率が高くなる。速度の速いスピーチにおいて細かい数字を入れる時間がなければ、全体の意味の中での概数を伝えた方が現実的な場合もある。情報量が多いプレゼンではパワポの資料がスライドに映し出されていることが多いため、早口のスピーカーであれば、このスライドのここを見るようにと、さっと言葉をはさむなどの小技が要求される。このあたりの処理が同時の経験で培われる。

自分は実力は別にして、やたら年だけを重ねて来たため、2 年前に 23 年ぶりに日本に帰って来てからは、放射線治療や製薬、訴訟といった比較的内容の難しい仕事ばかりが来るようになってしまった。デポジションは先に書いた通りすべて逐次である。放射線治療関連の会議や製薬会社が主催する治験責任医師会議などは、主にブースにおける同時通訳だ。少なくとも 2 人体制、あるいは 3 人体制だが、ブース内でどのように振る舞うかがまた、経験を重ねるカギとなる。先ず、1) パートナーと顧客に信頼されるような準備をする(準備とは新しい語彙をすべて拾い出して頭に入れる、その議題の一般知識を得る他)、2) 自分の経験や実力については自らは一切口にせず、黙って準備をし、黙ってブースを出る、3) 上手い相手は上手いと認め、その人の言い回しをすべて拾う(これは開始後直ちに始める)、4) 相手を尊重する。議題が難しい場合になると、同じブース内でもその特定分野に経験のある人が上手いアウトプットができる人となる。私は先にも書いた通り、年齢だけを重ねて来たため、上手い人とは、往々にして自分より年下である。たとえ年下でも実力を正しく評価し、謙虚に振る舞うことが大事だと考えている。

逆に自分の方が経験が豊かである場合もあるが、自分より経験が少ない相手に対して何を求めているかというと、これもいかに準備をしてきているか、である。製薬関連や原発など、調べなくてはならない用語が 500 語以上と膨大になる内容では、すべてを完全に準備することが現実的に難しい。こういった場合、プレゼン資料を分けて通訳者の間で準備の負荷を減らす策が取られるが、そういう策を取ってしても完全な準備に及ばない。そのような中でどうしたら効率の良い準備を果たせるか。これも経験だ。これらはすべて日英両面のある程度の通訳力があることを前提としている(今、目の前の仕事を固められる基盤がないのに根性と気の強さだけで仕事を取ることは、経験を重ねるという結果とは逆の効果を生む)。それを前提とした上で、基本的には会議全体の意味を先ず理解し、製薬など疾病がからむ場合はその症状とそれに対する薬剤の作用機序という根幹を理解した上で、自分の分のスライドにひたすら集中することが準備のコツとなろう。

と偉そうに書いてきたが、実は先週から同通でご一緒させていただいている放送通訳経験の厚い年下のパートナーに「セランドさん、資料は全部読んで来てください!」と指摘されてしまった。同通の小技に頼りがちな自らを猛省し、直ちに資料に目を通した。彼女は自分の番ではない時にもたゆみなく用語集を作り続けている。そういった姿勢が生み出した、その正確な語彙力から学んでいる。

Source: Translator Perspectives 2014