河野裕子歌集『体力』にみる詩歌の翻訳

―英語短歌の定型とダッシュ―

結 城 文

翻訳と一口にいっても散文の翻訳と詩歌の翻訳とでは、その様相も求められるものも異なることは論を待たないことです。詩歌は言葉の華とも音楽ともいうべきもので、意味内容のみならず韻文としてのリズムや調べの美しさが、翻訳というフィルターを通った後までも伝えられなりません。

一昨年のIJET-13で、私達は日本の詩歌のなかでも最も長い歴史をもつ伝統詩、短歌の翻 訳について語りました。その際河野裕子の第七歌集『体力』をもとに発表をおこないましたが、今回も引き続いて同歌集について前回取り上げられなかった諸問題及び英語短歌の 現状にも触れながら、短歌の翻訳についての考察を試みたいと思います。

短歌の英訳について主として二つの流れがあります。1970年代の後半に日本在住のローレ ンス神父が英語短歌集の出版をしましたが、その方式は日本の短歌と同様、非常に厳格に5-7-5-7-7のシラブル・カウントをするもので、爾来その方式が有力でした。もう一つの流 れはカルフォルニアでLYNXという雑誌を出していたライチホールド夫妻のように、31シ ラブルより短いフリー・スタイルで書く方式でした。私は最初に神父について英語短歌を 書きはじめましたから、当然、5-7-5-7-7 のシラブル・カウントをしていました。

しかし、短歌を31シラブルの英語短歌方式で翻訳するには、余分な詰め物をしなければな らないことにすぐ気づきました。短歌は定型詩であるから、英語短歌もたとえ大枠とはいえ、定型で書かれることが望ましいのはいうまでもありません。英語短歌の定型を探してみよう、そのために私の考えたことは、まず、英語短歌を日本の短歌形式で訳してみてそれが可能であれば、短歌と呼んでいいのではないかということでした。ローレンス神父の最初の集“Soul’s Inner Sparkle”を和訳したのですが、結果は内容量が多すぎて短歌形式に入りきれないということが分かりました。

次に私にとってもっとも短歌らしい雰囲気を持っていると思われるアンナ・ホーリーというアメリカの女性の短歌を同じ方法で和訳してみました。今回はうまく短歌の形式に入れながら和訳できました。こうして模索しているうちに岡田秀穂という元早稲田大学の教授の「詩歌の翻訳におけるリズム・長さと語義量について」という論文を読む機会がありました。その要旨は、「日本語の文節の数に英語の強勢数を合わせることによって、意味ばかりでなく、リズムと長さの点で忠実な訳を作ることができる」というものでした。」この理論に同調した中川温生は、“Tanka in English―In Pursuit of World Tanka”で、「短歌は10-foot-equivalentである」として、斉藤茂吉が芥川龍之介の自殺を知って詠んだ次に示す弔歌とShiffert and Sawaという二人の共訳した英語短歌、

壁に来て草かげろふはすがり居り透きとほりたる羽のかなしさ

斉藤 茂吉

Coming to a wall, Kabe ni kite (2 rhythmic segments)
a lacewing may fly kusa-kagerou wa (2 rhythmic segments)
is clinging to it sugari ori (2 rhythmic segments)
the sheer transparency sukitohori taru (2 rhythmic segments)
of the wings, their mournfulness hane no kanashisa (2 rhythmic segments)

Shiffert and Sawa

について「この翻訳のリズムは偶然オリジナル作品と一致していて、2-2-2-2-2の形式では翻訳も原文の各行とも、一つの音のグループに読むことができる」成功例としています。ここで翻って短歌の韻律を考えてみますと、五音、七音といった一句の音の数を支えにする日本の詩歌では、それを読み上げる時に、句と句の間に適当な長さの休みを無意識的に入れております。(これに関しましては下記の表1を参考にしていただくともっと明瞭になります。)その休み、ポーズを考えますと短歌は休止を含めて各句八マスずつの五行から成っていることが知られています。そしてアクセントの少ない日本語では、二音ずつまとまって発音されています。つまり、短歌は二音を一拍とする四拍子の五行から成立しているのであり、五音の後には三休止、七音の後には一休止分だけ延ばして読んでいるのであります。

表1.

短歌の内在律

二音一拍四拍子の五行

(〇は休止を表す)

1 2 3 4

yo no│na ka │wa 〇 │〇 〇 (8)

tu ne│ni mo │ga mo│na 〇 (8)

na gi│sa 〇 │ko gu│〇 〇 (8)

a ma │no 〇 │o bu │ne no (8)

tu na│de 〇 │ka na │si mo (8)

短歌は八マスの五行、つまり四十マスをもつことから二十拍の内在律をもっていると考えてよく、人間の音声発声の器官に大差はありませんから、短歌に見合う英語短歌は二十拍と考えてよいといえます。すなわち、「短歌に見合う英語短歌は十の強勢(アクセント)を含む十詩脚(フット)の英語短歌である。」という結論を得また。

これを、先にスムースに短歌形式に翻訳できたとご紹介したアンナ・ホーリーの英語短歌の詩脚(フット)を調べてみますと、その92パーセントは9~12詩脚で書かれていることが分りました。さらに我々の翻訳しました『体力』の英語短歌の詩脚を調べてみますと、我々は自然な英語の流れを尊重して英訳したのですが、結果的にはその七割が、九、十詩脚に翻訳できたのであります。このことから「短歌は2-2-2-2-2の形式で十詩脚の英語短歌に翻訳することが長さの面でも、リズムの面でも望ましい」という結論を経験則からも得たのであります。

次にダッシュの問題に移ります。その前に我々の『体力』の翻訳に用いました句点、punctuation markは、疑問符question mark,感嘆符 exclamation mark、コンマ( , )、引用符(“ a ”)、ダッシュ(―)、ハイフン( - )であることを確認しておきます。終止符periodは用いませんでした。これは短歌が和歌と呼ばれていた中世からの文学精神の一つの表れである余情、つまり短歌の表現内容の奥に感受される美的情緒を大事にすることのためであります。散文のように文を完結させて終わるのでなく、一首を読み終わった後の余韻を大事にするために、我々は『体力』の翻訳に際してあえてピリオドを省いたのであります。

さて、いよいよダッシュの問題に入りますが、我々は二種類の読点、すなわちダッシュとコンマを用いました。原則的にダッシュは長い切れ目、コンマはもう少し短い切れ目に使用しました。ここで原文の『体力』の句読点についてみますと、河野裕は、読点の「、」と一字アケを用いています。そのほか古来、短歌には上の句下の句という呼び方がありますように、短歌の生理として第三句に自ずからなる切れ目があることを、ここで確認して置きたいと思います。次表は我々がダッシュを用いたものの内容であります。

一字アケ 二句切 三句切 会話 呼び掛け 詠嘆 第五句の転換 副詞句など句 句割れ 日英文脈の差 計 / %
1 34 58 2 2 1 19 5 2 4 128
0 27 45 2 2 0 15 4 2 3 100

この表から分かりますことは、まず短歌の自然の区切りである第三句にある切れ目をダッシュで表現したことで、これは当然予測され得る結果であります。次に多いのは二句切れの歌であることを表すダッシュであります。三番目に多いのは、この作者の特徴として、初句からうたってきて第五句でがらっと転換を図る歌、結句で勝負する歌がかなりあるということであります。これら三種類のダッシュは、原文にある切れがそのままダッシュに、あるいは今回触れる暇がありませんが、コンマに反映されているといってもよいのです。これはむしろ当然のことで、私の調査はそれを数値の上で確かめたにすぎません。

ここで特筆したいことは、次の歌のダッシュを我々が削除した事情であります。

米研ぎて日々の飯炊き君が傍へにあと何万日残つてゐるだらう

washing rice,

daily cooking it

by your side

how many tens of thousands

more days remain, I wonder

の歌で、我々は三行目の“by your side”の後に最初置いていたダッシュを省略しました。「君が傍へに」は、上下双方の句の間にあって繋ぎの働きをしつつ双方を修飾しているのであります。第二、三句の後にダッシュがあることは、そこに切れ目があることを明示するもので、この歌における作者の真意は「君が傍へに」はむしろ下の句にかかっているのでありますから、原歌の意に反することになります。ダッシュを省くことによって、日本語のこうした曖昧さを残すことこそ忠実な翻訳といえるのではないか、これは翻訳に際して我々の気を使ったことの一つであります。これと同じ事例としてもうひとつあげましょう。

君と呼ばれ柔らかなりし日の昏れは鶏かけろのやうに丸まりて寝ねき

you call me ‘darling’

and my heart melted

in the twilight

we lay sleeping

curled together like chickens

第三句「日の昏れは」は、前例と同様上句にも下句にもかかる非常に含みのある短歌的表現で、我々歌人はそこに短歌という詩形の醍醐味を味わうのでありますが、翻訳となるとその多義性は曖昧さとなって翻訳者を悩ますのであります。しかし、その曖昧さのニュアンスをも含めた翻訳をなしえたと思う時、翻訳者としての醍醐味を味わうのでもあります。

次に日・英の言語の文脈の差によって、かならずしも原歌にある切れ目が、そのまま訳文に反映されない例をあげます。

三句切れだが英文では二句目にダッシュが移動した例。

淡き指ひろげて雪を受けてをり会はざれば十年も一日も同じ

pale fingers spread

catching the snow―

when we do not meet,

ten years, one day,

both are the same

逆に二句切れであるが、英文では三句目にダッシュがきた例として次をあげます。

薬缶下げて部屋に立ちをりもう一度この子は入試に遭あはねばならず

putting down

the tea-kettle,

she stands in the room―

this kid will have to face

the entrance exams again

次に一例だけだが、一つの英語短歌に二つのダッシュを使った例をあげます。

風のなかの触覚のやうな息子かなたつた一年で十九歳は過ぐ

my son―

he’s like antennae

in the wind―

in just one year

he’ll be past nineteen

一行目のダッシュは、原歌の「息子かな」の「かな」という詠嘆の意を表すダッシュであり、三行目のダッシュは三句切れを表すものであります。

以上日・英の言語の置き換えの際にでるひずみや、困難度の高い切れ目をもつ短歌を選んで事例をあげてみました。