翻訳は何から学ぶべきか
井口耕二
翻訳は、何からどのように学ぶべきなのでしょうか。
プロになるまでは、翻訳学校など、勉強する場というか、教えてもらえる場がいろいろと用意されています。翻訳の仕方、こういう文はこういう風に訳すといったことが解説された本もたくさんあります。また、翻訳出版された書籍を使い、原著と訳本を見比べて勉強するという方法もあります。
いずれも有効な方法だと思います。同時に、このような方法で行けるのは途中までだとも。
「翻訳方言」の問題があるからです。つまり、翻訳では原文に引っぱられてしまい、ターゲット言語で書き起こしたら使わない表現を使ってしまうわけです。そして、上記の方法で学べるのはすべて「翻訳方言」になってしまうのです。
もちろん、人によってなまりの強さは異なるわけで、翻訳なまりの弱い人を選んで学ぶことは可能でしょう。ただ、翻訳をずっとしている人が翻訳方言ゼロの境地に達するのは無理だろうと思います。たとえば私は、翻訳方言がかなり前から気になっていてなんとか減らしたいといろいろ努力をしてきたつもりなのですが、それでも、きっと、気づかないうちに使っている翻訳方言がたくさんあるはずです。昔、「しまう」という意味で「直す」を使うのは西側の方言だと気づかずに使いつづけていたように。
私はもともと九州の出身で、両親の言葉は久留米弁です。ただ、小学校にあがるときから関東に住んでおり、栃木で10年、東京で30年も暮らしています。そのためふだん使う言葉はいわゆる標準語であり、言葉から出身が関東ではないとわかることはほとんどないようです(名字、「井口」の読みが「イノクチ」なのは、西の出身であることを示していますが)。でも、大学生時代、下宿に遊びに来た友だちに「それ、直しといて」と頼んで「壊れてるの?」と不思議な顔をされてしまいました。九州弁で「直す」は「もとあった場所に戻す」の意味があるのですが、標準語にも「直す」があるし意味範囲もほぼ同じであったため、これが方言だとは気づかずにいたのです。
閑話休題。
翻訳ミステリー大賞シンジケートの『第八だらだら(続・訳注という地雷)』(http://d.hatena.ne.jp/honyakumystery/20110426/1303771071)に、とある編集さんから言われて印象に残っている言葉というのが紹介されています。
「早川や創元の読者だと翻訳を読み慣れているからこういう書き方でも理解してもらえるでしょうが、文春の読者だと、生まれてはじめて手にとった翻訳小説がこの本だという場合があります。そういう読者にも違和感なく受け入れてもらえるような文章を望んでいるんです」
この言葉に、この文章を書かれた翻訳家鎌田三平さんはショックを受けたそうです。
「わたしは目からウロコが落ちた思いがした。中学生の頃から早川創元の小説を山ほど読んで、その後の経験もあってすっかり翻訳小説人間になっていたわたしは、自分の世界を鉄槌一振りでぶち壊されたような気がした。本の虫だったわたしの青春時代はなんだったんだろうね?」
このとき鎌田さんは、翻訳出版された書籍を使って翻訳の勉強をしてきて、その結果、翻訳方言使いになっていることを突きつけられてしまったのだと表現することもできるでしょう。
結局、ある程度のレベルまでは他人の翻訳から学ぶべきだけれど、その先は、翻訳からではなく、ターゲット言語で書かれた文章から学ぶようにしなければならない――そういうことなのではないでしょうか。
産業翻訳の世界でも同じことが言えます。「この分野でこういう文章はこう訳す」……その業界常識は、その分野でもともと日本語で書き起こしたときにも常識である表現なのでしょうか、それとも非常識な翻訳方言なのでしょうか。
こう考えてみればわかるはずだと思いますが、ターゲット言語で書かれた文章から学ぶようにしなければならないというのは、別に小説の翻訳だけでもなく、出版翻訳だけでもなく、あらゆる分野の翻訳に当てはまる原則のはずです。
学ぶ対象も、小説にかぎりません。ノンフィクションものや広告コピーなどはマーケティング資料の翻訳にいろいろと役に立ちます。マニュアルだって、テクニカルライターが書き起こしたものがいろいろと参考になるはずです。そういうものをたくさん読んで、表現の仕方が翻訳物とどう違うのかを探し、自分の翻訳を矯正していくわけです。