審査員講評 Part 1
藤村聖志
今回の課題はAI関連の規制に関するものでした。翻訳業界においてもAIを利用した翻訳ツールが活躍しており、あらゆる分野でAIシステムが活用されています。本課題では「Ensuring the responsible design, development and deployment of AI systems」と言っていますが、これは即ち、無責任なAIシステムの設計・開発は何らかの弊害をもたらす、という意味に他なりません。AIはデータを食べて賢くなる人工知能であって、与えられたデータやアルゴリズムに瑕疵や偏りがあるととんでもない誤りを犯すことがあります。
自動翻訳AIについて一言いいますと、翻訳者とAIの決定的違いは想像力の有無にある、と私は考えています。ある場面を描いた文を翻訳する時、翻訳者は、原文を精読するのはもちろんですが、それに加えて、その場面(状況)が発生した背景事実、その場面に至る文脈の流れ等を考慮し、その場面自体を思い描きます。それに反し、AIには与えられた文(データ)がすべてであって、その構造・語句を分析し、分解した要素にラベルを与え、過去の学習データと照らし合わせて翻訳文を構成します。いわば究極の逐語訳みたいなものです。紙面に書かれた文章も一つのデータですが、間違いなく人間の書いたものであって、人間の書いたものを人間が訳す作業では、人間同士でこそ通じ合うアンテナめいたものが働いていると思います。あえて誤解を恐れずに言えば、紙面上の文章に隠された思いまで表現できるような訳ができれば翻訳者冥利に尽きるのではないかと考えています。では、各訳文の講評に移りたいと思います。
J79
J79の良いところは、原文内容を一旦消化した後で自分の言葉で訳文を書いていることでしょう。原文解釈、情報分析、表現という三段階を踏んでいるので翻訳臭のない訳文になっています。何人かの人が躓いたmarginalized communitiesを「社会的立場の弱い人々」と上手く訳せていますし、第7段落のThe AIDA will introduce new requirements…以下を「AIDAが施行されれば・・義務付づけられる」としたのも、introduceに引きずられて「・・組み込まれます」とか「・・課します」とするのと比べて、上手い訳だと思います。この段階まで来ると、今度は、意訳の誘惑に警戒しなければなりません。ある程度自在に訳文を書けるようになると「これはこういうことじゃないか」と思って、もっと気の利いた訳文を書きたくなります。でも、大方の顧客はどちらかというと、直訳の弊害よりも意訳の危険性を警戒します(自分たちが英語に疎ければ意訳を受け入れがたいのは当然ですよね)。第5段落のDid you know?を「あまり知られていないこと」としたのは、youを使って問いかけている文の訳としては無理があります。断定形で通したかったのでやむなくこういう訳になったのかもしれませんが、ここは、「知っていましたか」でも良いのではないですか。こうしてもそんなに違和感はないと思います。もう一つ、最終段落の「革新・・大臣には、大臣を補佐するAI及びデータ委員が新たに設置され・・」という部分ですが、まず、「大臣には・・設置され」という表現は「大臣のもとには・・設置され」というべきですし、「AI及びデータ委員」は「AI・データコミッショナー」とした方が良いと思います。このコミッショナーについて関連サイトを見てみましたが、非常に権限のある役職で、「委員」よりも「コミッショナー」というべきでしょう。
J89
J89もかなりこなれた訳文を書いています。簡潔さではJ79よりも上かもしれませんし、全体の印象は非常に良いのですが、いくつか見逃せない問題が見つかりました。まず、第2段落のmarginalized communitiesの訳「周縁化された人々」はいただけません。「周縁化された」と言ってわかる読者がどれだけいるでしょうか?これは、社会の主流・進歩から取り残された、社会的に立場の弱い人々であって、そこら辺を分かり安く伝えなければなりません。AIが話題になっていることを考えれば、「時代に取り残された人々」でもあながち間違いではないと思います。もう一か所、第9段落のThe proposed Act is…meaningful framework that will be …の部分ですが、「詳細な規則によって有意義な枠組みが完成し、効力を持つ・・」は、何を言いたいのか少し分かりにくいですね。designed to provide・・の扱いに困った感じですが、ここは、thatを後ろから訳さずに、「AIDAは有意義な枠組みを確立するために立案されており、その枠組みは詳細な規則を通して完成し効果を発揮する。」としてはどうですか。こうしたのは、直後の段落がThese new regulationsから始まるためです。つまり、第9段落のthatは確かに制限的用法であって後ろから訳すのが常套手段ですが、第9段落がregulationsで終わって次の段落がThese new regulationsから始まることを考えると、著者の視点はregulationsに移っており、その場合、that節を非制限的に訳した方が、著者の思考の流れに沿って分かり易い訳になるということです。最後に、「システミックリスク」についてですが、オックスフォード辞典によると、of or concerning the whole body, not confined to a particular partというような説明がされています。「システミックリスク」と丸投げせずに、「全体的(総体的)リスク」「システム全体のリスク」くらいは書いてください。
J64
J64は特に目立った誤訳が無く堅実な訳文ではあるのですが、カタカナ用語の使い方をもう少し考えて欲しいと思います。まず、第2段落の「マイノリティーのコミュニティー」はmarginalized communitiesの訳としては誤訳です。「マイノリティー」は人種的少数グループを指す表現であって、「社会的に立場の弱い人々」を意味しません。第10段落は、「ベストプラクティス」「規制アプローチ」「コンプライアンスを容易に・・」と、カタカナ用語が続出していますが、「規制アプローチ」はまだ許せるとしても(私としては「規制取り組み」「規制方法」等の方が良いと思います)、「ベストプラクティス」は「成功事例」のほうが分かり易いし、「コンプライアンスを容易に・・」はせめて「法令順守を容易に」としてほしいです。よく「企業コンプライアンス」などと言いますが、ここは法案の話ですから「法令順守」と言えば分かり易いし、具体的に「AIDAへの対応」と書いても良いと思います。最終段落の「イノベーション・科学・産業大臣」は、「イノベーション」が定着した表現ではあるものの、「革新・科学・産業大臣」として三つとも漢語でそろえた方が、統一感があって良いと思います。カタカナ用語は、日本語としての定着度がまちまちでありながらも使い勝手が良いのでついつい使ってしまう傾向がありますが、翻訳者としては、その多用を避けるべきだと思います。
J51
J51はかなり正確に訳せていますが、どうも、辞書からそのまま拝借したような訳語が多いですね。いわゆる「翻訳臭がする」という事例ですが、プロをめざしているのなら、「翻訳臭」のない訳文を作成しなければなりません。目立ったところでは、ensureを一様に「保証する」と訳していますが、そうではなく、その「保証する・確実にする」行為を文脈に沿って具体的に表現する必要があります。例えば、「保証する・確実にする」具体的対象がはっきりしている場合以外は、「・・ようにする」「・・ものにする」等と言っても良いと思います。第10段落の「最良の慣行」は辞書の訳をそのまま借りてきたもので、「ベストプラクティス」の訳としては誤訳であり、表現自体も意味が伝わりません。「コンプライアンスを遵守しやすく」も同様で、そもそも「コンプライアンス」自体が「遵守」の意味を含むので、理解不足が露呈した形になっていますよね。このように、辞書から拝借した訳をそのまま使うのは翻訳者の怠慢と見なされても仕方のない行為ですので、必ず訳語を一度吟味するようにしてください。最終段落の「サポートを受けます」も、確かに間違いとは言えないのですが、具体的状況としては、大臣のもとに新たに補佐役のコミッショナーを立てるということですので、「・・コミッショナーの協力を得ることになります」等と、具体的に表現したほうが良いかと思います。特にsupportのような語は広い意味の広がりを持つので、「サポート」とそのまま丸投げするとぼんやりした意味しか伝わりません。
J50
J50は、文章力があります。訳文の完成度はかなり高く、一見すればよい訳文と思えるのですが、ところどころ大げさになりすぎたり、意訳しすぎたりする部分があります。まず第3段落の「羅針盤を定める」は、set the foundationの訳としては大げさすぎるでしょう。第7段落の「AIDAが新たに企業に求めるのは・・あらゆる面において・・万全の手を打つ」も、必要以上におおげさで、ここは、「AIDAの施行に伴い、・・あらゆる面において・・ある(ことを保証する)ように、企業には新たな義務が発生する」と素直に訳した方が良いと思います。「新たな義務が発生する」と書くことで、すぐ下の箇条書き部分を暗示します。また、第10段落ではinteroperable with existing…approachesの部分を思い切って「従来の取り組みの延長として・・・取り組むこと」としていますが、ここは、J78 のように「相互運用」(interoperable)に言及した方が良いと思います。なぜなら、すぐBy drawing on common standards(共通の基準)という句が出てきて、現在の規制方法と将来の規制方法の併存を示唆しており、それが法令遵守の容易さにつながるからです。「従来の取り組みの延長として・・・取り組むこと」以下は、訳文自体はスムーズで読み易いのですが、肝心のロジックがぼやけてしまっています。意訳も時には必要だとは思いますが、原文のロジックを壊さないような慎重さが必要です。
今回は、J79以外にもそれぞれ光るものがあり、比較的レベルの高い訳文を書かれているなと思いました。私達の講評がどれだけお役に立てているかはわかりませんが、翻訳に絶対的な正解がないように、この講評も絶対的な正解というわけではなく、あくまでも参考意見として受け取ってください。審査員個々にもそれぞれ好みや傾向がありますので、なるべくいろんな人の評価や批評を参考にされれば良いと思います。お疲れ様でした。
(Part 2 に続く)