審査員講評 Part 2
石原ゆかり

みなさんおつかれさまでした。多数のご応募ありがとうございました。受賞された方々おめでとうございます。

今回はJ79とJ89を上位2作品に選びました。いずれもおおむね、きれいな日本語で原文の意味に忠実で読みやすい訳でした。原文の意味を理解したうえで自分の言葉で表現している、てにをは、主語と述語の呼応といった文法が安定している点、原文の意図に沿った言葉や表現が使われている点で高く評価しました。

J79は「社会的立場の弱い人々」、「システム全体にわたるリスク」、「多大な影響を及ぼすAIシステム」といった表現が光っていました。ただ、「あまり知られていないこと」は誇大表現ですし、「転換」、「査定」の意味は原文の意味とは異なるので要注意、「モニターする」や「タイプに応じて」がカタカナ語であったのは惜しいです。それから「である」調の文体である点、それ自体は減点にはしていないのですが、この文書は政府から国民に理解を求める内容であるので親しみやすくするために「~です」調の方が適切ではないかと思います。書き手が読み手を意識して書いている点を念頭に置きましょう。

J89も、安定した日本語の文章として読めました。「一変させる」、「徹底させる」、「影響力の大きい」、「特定し、これに対処する」、「想定用途」、「法令遵守状況」の辺りなどはうまく訳されていると感心しましたが、「効率化」、「周縁化」、「非差別的」は英語っぽい表現なので工夫があると良かったです。「(経済)環境」や「(使用)状況」は分かりやすくしようという努力は良いのですが、原文から逸脱していると判断しました。また、「(がん)闘病」、「健康」はこの文脈には適していないと思います。

では次に、文や段落ごとに注意点、攻略法など簡単に解説します。

Artificial intelligence (AI) is…:並列が並び、長文です。印を付けるなどして構文を把握しましょう。economyは「の形」など補足する必要はないと思います。improving food productionは個々の単語のみではなく、全体の意味を把握すると適切な表現が浮かびます。ここでは「食料生産の向上」が適切だと思います。「有り様」、「手ごわい」といった和語は個人的には好きですが、このような文書では合わないと思いました。

AI systems use data to…:task」を「タスク、「処理」と訳すと機械のみに限定されてしまいます。Theseは「このような」、「こうした」でも良いですが、実務では内容によっては単数、複数をしっかり区別することもあるので、そのまま「これらの」としても良いと思います。「したり」は、本来「~したり、~したり」と繰り返して使うのが正しいです。decisionsは決定、判断、決断、決心、判決など状況に応じて使い分けできるようにそれぞれの日本語の意味を理解しておきましょう。

The proposed Artificial Intelligence…:法の名称、またこれが書かれた時点で法なのか、法案なのかを調べて使い分ける必要があります。実務では表記はクライアントからの指示に従いますが、ない場合は自分で判断し、文書内で一貫するように注意してください。翻訳者はスタイルガイドの作成も依頼されることもあるので表記方法についても知識が求められます。deployは、本来は軍事用語ですがIT関連で頻繁に使われるようになりました。文脈に応じてデプロイ、展開、導入、配備、配置など適切な用語を選べるようにしましょう。

The Act would ensure…:ensureは実務でも頻繁に使われる表現ですが、ちょっと訳しづらい言葉ですよね。上位5作品ともうまく訳してありました。私は仕事で「きちんとやっておいてくださいね」というように指示を出すときなどに使うようになって、意味が身に付き、それに応じた日本語の表現が浮かぶようになりました。普段から映画や英文記事などに親しみ、この状況ではどういった表現が使われるのか、英語社会の感覚をつかむようにすることをお勧めします。accountabilityは、単に「= 説明責任」ではなく、結果に対して責任を持つという意味を踏まえて表現を工夫してみてください。

While some regulations in…:systemic riskは金融用語として使われていますが、昨今では医療でも使われているようです。「システミックリスク」という言葉が一般に広く定着しているかどうか、吟味が必要です。systemicとsystematicの違いに注意しましょう。

Great strides have been made…:「倫理的AI」というと直訳調で、果たして何のことなのか分かりづらいです。「倫理的な」と「な」を付けるだけで少し分かりやすくなります。J89の「AIを倫理的に開発する手法」と副詞の表現に変えたのは上手ですね。while…が省略されている、もしくは「~間」としてしまっている作品がありました。thisが何を指すのかに注目すれば「~続くが」と訳せると思います。

Ensuring the responsible…:responsibleはdesign、development、deploymentすべてに係っています。

Under the AIDA…:AI activities under their controlは、文脈から、その企業の管理下で行われるAI活動(つまり、AIの利用、AIの開発、展開)だと理解できます。

They will be required to…:and give以下はrequired to…につながっているのか、それともthat will…につながっているのか。このような長く複雑な文は、構文を解剖し、各要素を丁寧に拾ってから日本語の文にします。

… be required to…:箇条書きで連続して出てきます。頻出する場合は文脈やバランスを考えて表現を変えるか、敢えて同じ表現にするかを決めます。

The idea is to have…:where以下はflexible policyの説明です。Where関係詞も実務でよく使われます。私はこれも仕事などで読んで、自分でも使うようになり、感覚がつかめました。用法を調べてみてください。

The proposed Act is…:…brought into…はどこに係るのか。迷ったら解釈を両方とも訳してみて、どちらが文脈および論理に合っているか、訳文を比べてみてください。

These new regulations…:「regulatory approaches = 規制アプローチ」という訳がリサーチで見つかるかもしれませんが、それってどういう意味?と自分に問いかけてみましょう。もっと分かりやすい表現が浮かぶと思います。

Read the Artificial…:companion documentは、実際の文書を開けて読んでみると、「手引き」であることが分かります。

The regulatory development…: commitも「コミットする」というカタカナ語が一般にも使われるようになってきたかもしれませんが、本来どういう意味なのか、例文などを読んで理解すると文脈に応じて訳せるようになります。transparentは「透明」ではありますが、「透明なプロセス」とすると分かったような分からないような表現になるので、「透明性を持った」、「明確な」など、工夫してみてください。J50の「透明で開かれたものとなるよう」と語順を変えるだけで分かりやすくなったりもしますよ。

いよいよAI、人工知能の時代に入りましたね。人々の生活を便利にし、より豊かなものにすることが期待される一方で、AIの信ぴょう性や公平さについて懸念する声もあります。利用者が気付かないうちに情報がどんどん取り込まれ、公表、悪用されるというプライバシー上の心配、さらには悪意を持った人によって開発されたAIが人に危害を加えたり、人の意思を操ったりして社会全体の安全を奪うという危険もはらんでいます。AIを開発する側には、利用者に対してこのような倫理面での安全を保障することが求められますが、それを義務付けるべく、カナダではAI関連の法規制が進んでいるようです。日本や他の国々ではどうでしょうか。今回のコンテスト応募をきっかけにいろいろ調べて、AIの効果だけでなく危険があること、危険から利用者を守る必要があることについても意識を高めていただけていたら幸いです。

この課題文はAIを開発する側に対する規制に関するものでしたが、利用する側もその危険性を十分に理解したうえで利用する必要があります。翻訳アプリなど利用している人も多いでしょうし、実務でも今後利用の場が増えることが予想されています。近年、機械翻訳が急速に普及し、精度も上がってきています。機械翻訳エンジンで処理された生の翻訳文を翻訳者が手直しして完成させるという、ポストエディットという仕事が増えてきました。この流れから、AIを利用した翻訳も今後さらに進んでいくと思われます(機械翻訳とAIは技術が異なります。ぜひ調べてみてください)。機械翻訳やAIに翻訳させたら簡単だとか、そのまま、もしくは下訳に使ってみようとする前に、いくつか留意すべき点を挙げます。

- 正確であるとは限らない①:つい最近、他の言語ですが実際にあった例です。「某大手の機械翻訳エンジンにかけたところ、Double Clickがすべて統一して(1回の)クリックと訳されていた。ベテランの翻訳者がポストエディット段階ですぐに気づき、直したのは良いが、かえって不要な手間がかかった。原文の英語と比べないと気付かなかったかもしれないし、気付いてもこのクライアント指定の訳なのかもしれないとそのまま受け容れてしまう可能性があった」。ダブルクリックとクリックでは動作が異なるので、大きな誤訳ですよね。気付いてよかった!

- 正確であるとは限らない②:これも実際によく見かけますが、訳抜けや原文にない補足もあります。①の例もですが、この英文の対照となる日本文はこうだ、というパターンで訓練されたエンジンはそれに従って訳を提示します。それが正しいのか否かは(現状の技術では)判断してくれません。I went shopping and had lunch with my college friend yesterday.が「日曜に買い物に行ったついでに友達とランチした。」と訳されることも十分にあり得ます。「ついでに」なんてこなれているけれど、yesterdayを日曜としてしまって良いのか、collegeは、もしかしたら重要な情報かもしれないのに省略されていて良いのか。すらすら読めてしまう訳文ほど要注意です。

- 関係詞など修飾句が多い、並列要素が多いなど、長く複雑な文は弱い:技術文書や法的文書では1文に修飾句がいくつも含まれているなど複雑なことがあります。人間の方がまだまだ構文理解力は優っているようです。訳文が文として成り立っていないのなら明らかに誤りだと気づけるのですが、勝手に違うところに係けて、もっともらしい文になってしまっているようなときは誤りを見落とす危険があります。

- 適切な用語や文章のスタイルで訳されるとは限らない:特定の分野や文脈にあった用語や、クライアント指定のスタイルが使われるようにエンジンをトレーニングする必要がありますが、特に個人で市販のサービスを利用する場合などはトレーニングできないこともたくさんあります。翻訳者は、指定の用語集やスタイルガイドに沿って訳す、特定の分野で使用されている用語をリサーチするといったスキルが求められることには変わりはありません。

- 原文の内容はエンジン側に残り、知らずに公開されてしまう恐れがある:情報漏洩の危険がある点は強調してもしきれません。たとえばA社の営業の人が米国本社から送られてきた顧客データを読んで、意味が分からない表現が出てきたのでChatGPTで訳すとします。そのまま顧客名と価格が入ったまま聞いてみるとします。そうすると、その文はそのままChatGPT側に残ります。今度は競合のB社の人が顧客データの資料を英文で作成したくて良い表現はないかとChatGPTにアドバイスを求めます。その答えとして生成されたA社の顧客名や価格が入った情報が、結果B社の人に伝わってしまうのです。こうした危険があるため、私の勤務先ではAIや機械翻訳は基本的には直接の業務には使用しない、あくまでも参考用として使用する、社内、ファイアウォール内で許可されたエンジンを使用する、顧客名や価格といった具体的な内容は外すか別の言葉に変更する、翻訳や生成された内容には必ず目を通して誤りがないか確認してそのまま業務に使用されることがないようにする、など、その使用が限定されています。実務翻訳では入札、契約書、訴訟の資料、特許といったさまざまな機密情報も扱い、翻訳文の正確さが求められるためオンライン翻訳ツールやAIなどは勤務先やクライアントから指定や許可されているものを使用し、使用する場合は単語や表現ぐらいに留め、具体的な内容を入れないか、変えるようにするなど工夫が必要です。

というわけで、翻訳者には機械翻訳やAIによる翻訳では完全には保証されない正確性が求められ、そのためには高度な読解力、表現力、リサーチ力が欠かせません。受賞された方もそうでない方も、今回や過去のコンテストの作品および講評を参考に今後いっそう翻訳スキルを磨いていただけたらと切に願う次第です。

(Part 3に続く)