審査員講評 Part 3
安達眞弓
第20回 JAT新人翻訳者コンテストにご参加いただいた皆様、お疲れ様でした。
今回は様々な分野で急速な展開を遂げているAIをテーマに、カナダのAI法、Artificial Intelligence and Data Actについての政府文書を課題文としました。出題者は内田順子一次審査員です。
カナダはイギリス連邦に属する先進国ですが、日本語化されたカナダの情報は英米に比べると少ないと感じます。そのため調べ物に難航されたのではないでしょうか。とはいえファイナリストに残った5名の訳文はいずれも大きな誤訳はなく、日本語の表現力が順位の決め手となりました。
日本語の定訳がない単語は無理矢理訳すより、カタカナ表記の方がむしろ伝わりやすいこともあります。ただ、文章全体でカタカナの量があまり増えないよう、他の単語とのバランスを取ることも検討しましょう。
では、課題文を4つのパートに分け、原文を検討しながらファイナリストの皆さんの訳文に触れていきます。
【その1】冒頭からthey can also have significant impacts on Canadians, especially marginalized communities.まで
★Artificial intelligence (AI) is transforming~
changeではなくtransformとしたのはなぜか。ただ変わったのではないことを読み取るべきところです。英英辞書を引いてみましょう。
Transform: To transform something or someone means to change them completely and suddenly so that they are much better or more attractive. 【Collins】
「change them completely and suddenly」ですので、がらりと変わった、一変した、というイメージが頭に浮かびます。さらりと「変わった」とはしたくありません。J79は「転換」という語をあてていますが、転換とは「うつしかえること。それまでの方針や傾向などを別の異なった方向に変えること。また、そのように変わること」(コトバンク)という意味で、原文から少し乖離したように感じました。J89は「一変させる」、他の方々は「変えつつある」と訳しています。
★they can also have significant impacts on~
ここでのimpactは、文脈から「悪い」影響だと読み取れます。significantとまで言っているのですから、ここもあまりさらりと「影響」だけで済ませるのはどうでしょうか。impactを「打撃」や「衝撃」といった強い言葉を使う、significantは「重大」より「深刻」と訳せば、書き手が抱く懸念が伝わる訳文になるでしょう。
★especially marginalized communities
marginalizedは「社会の周縁に属する」という訳がよく使われています。社会的弱者やマイノリティーでも間違いではありません。ただ今回は訳文中にカタカナ表記が比較的多いため、気になったら「マイノリティー」を漢字に置き換えてもいいでしょう。最近はminorities の代わりにmarginalizedがよく使われていると感じました。
「周縁」の定義については、以下の文書が参考になりました。
https://www.mfjtokyo.or.jp/events/symposium/20160701.html
【その2】The proposed Artificial Intelligence and Data Act (AIDA), からCanadians can trust the AI systems they use every day.まで
★hold accountable
to make someone responsible for what they do and demand a satisfactory reason for it 【Cambridge】
「説明責任を果たす」と訳すのが適切でしょう。ここもresponsibleとaccountableの違いをよく考えて訳語を決めるといいですね。
★Did you know?
ここは素直に「ご存じでしたか?」で問題ありません。J79は「あまり知られていないこと」と訳されました。直訳にしたくなかったという気持ちはわかります、でも、今回の課題文は政府文書ですので、そこまで凝る必要はありませんし、逆に本来の意味から少し乖離したように感じました。
【その3】Ensuring the responsible design, development and deployment of AI systemsからensure systems are continually monitored.まで
★Under one's control
「管理下に置く」ということです。カタカナの「コントロール」では意味が曖昧ですし、もう一歩内容に踏み込んでほしかったなと感じました。
★harm and bias
「危害」は主に人が被る害を意味します。ここでは人と物の両方に及ぶ害を意味するので、単に「害」や「損害」がふさわしいと考えます。漢字に訳したharmとandでつながっているのですから、biasはカタカナを使うより「偏見」と漢字にするとおさまりがいいでしょう。
★assess
AIシステムの使い方や限界を評価する、という意味です。「査定」とすると、評価したデータをもとに値を決めるという意味になってしまい、正確な翻訳とは言えなくなってしまいます。
【その4】Improving accountabilityから最後まで
★The proposed Act
冒頭で「2022年デジタル憲章実施法案の一部として提出された」と言っているのですから、The proposed Actは「今回提出された法案=AIDA」ですよね。皆さんproposedを訳出されていませんが、何かそうしたい理由があったのでしょうか。
★Artificial Intelligence and Data Act (AIDA) - companion document
課題文のPDFにはありませんが、もとのウェブページには、ここにリンクが張ってあります。ここまでが文書のタイトルです。課題文を読んで違和感を覚え、もとのページに飛んで確認する。実際に依頼される仕事でもよくあります。ファイナリストの皆さんは全員、その点を踏まえた訳出ができていました。
最終審査の結果、5人中日本語の表現力が最も高かったJ79を1位に選びました。これは毎回上位入賞者の方々に言えるのですが、訳文の日本語が達者になると、無意識のうちに原文から離れ、最終的に誤解釈や誤訳をしてしまう傾向があります。心当たりがある方は、見直しの最後でもう一度原文と付き合わせることをお勧めします。原文が読めて、しかも日本語の表現力がすでにあるわけですから、あと少しでさらに質の高い訳文が作れるようになります。
選んだ訳語が原文と意味が解離していないかチェックする際、国語辞典が必要です。自分の語彙力を過信することなく、こまめに国語辞書を引いて確認しましょう。たとえば今回、food productionを「食糧の生産」と訳した方がいらっしゃいました。食糧とは、米や麦などの主食を意味します。「食料」の変換ミスと思われますが、AI技術は穀物の生産にのみ有効で、肉や魚には利用できないと誤読されるおそれが生じてしまうので、気をつけてください。
オンラインで利用できる無料の国語辞書として、コトバンクをお勧めします。
典拠として信頼できる日本国語大辞典やデジタル大辞泉の語義が掲載されています。
今回の課題文のテーマであるAIシステムは今後ますます翻訳に使われ、その精度も日進月歩で上がっています。翻訳を仕事に選ぼうと決意された皆さんには、AIと共存し、生き延びる力が求められます。生き残りを懸けて努力するエネルギーや知恵が、今まで以上に必要です。厳しい世の中ではありますが、どうかAIを使いこなすだけの実力を今のうちに身につけ、次代を担う翻訳者として生き残ってください。