藤村聖志

新人翻訳者の皆さま、お疲れ様でした。ずばり聞きますが、今回の課題文は難しかったで
しょうか?我々審査員の間では「比較的優しい方なのに意外と訳せていない」という意見
が出ました。本課題文が優しいものかどうかはさておいて、はっきりいえるのは、この程
度の文章に四苦八苦しているようでは翻訳で生計を立てることは難しいということです。
皆さんが躓いているのは、第二段落resiliency、第三段落evaluate …for
improvement in…、border barrier design toolkit、第五段落two companies building
examples of both等です。これまでの講評でも述べたと思いますが、どれだけ簡単な文章
でも100%辞書とインターネットで解決できるものではありません。すべての単語・語句は
文脈の中で生きてきます。言い換えると、普段見慣れた単語でも、特定の文脈の中では、
辞書を調べても理解できないような使われ方をする場合が、往々にしてあるということで
す。例えば本課題文のresiliencyですが、なぜstrengthじゃなくてresiliencyなのか疑問
に思った方もいらっしゃるのではないでしょうか。resiliencyを大きい辞書や英英辞典で調
べると、「弾性」や「柔軟性」の他に「回復力」や「複元性」という意味が含まれているの
がわかると思います。この時点で早速「弾性」や「複元性」に飛びつかずに、今一度文章
全体の主旨を考えてください。越境者にとっての驚異はいつも壁がそこにあるとういう事
実です。単に物理的に強靭であるというばかりではなく、穴をあけたり梯子でよじ登った
りするあらゆる越境手段に対抗できるようにできている壁なのです。そういう総合的な「堅
固さ」や「耐久性」をresiliencyという言葉で表現しているのではないでしょうか。「強度」や「弾性」は、その一部の物理的特徴を表現するにとどまります。
前置きが長くなりましたが、要するに、辞書とインターネットで解決できない場面にでくわしたら文章の背景や文脈を再検討しましょう、ということです。この作業こそが翻
訳者の翻訳者たるゆえんであって、皆さんの翻訳センスが問われる場面でもあります。上手い訳文や言い回しはもちろん評価されるべきですが、本当は、こういう部分をさりげな
く自然に訳せる人が上手な翻訳者だと、私は思います。

J51
訳文全体としては、最終審査対象者の中では一番完成されていると思います。特に、第五段落のtwo companies building examples of bothを「2社が2種類ずつ完成させる」としたのは、よくコンテクストを消化した良い訳だと思います。しかしながら、resiliencyを「弾性」としたのはほとんど誤訳に近いでしょう(冒頭の説明をお読みください)。第三段落のevaluate the new wall designs for improvements in denying or impeding illegal entryを「不法入国の防止と阻止に向けて新しい壁の設計に加えられている改良点を評価・・」としているのも、苦しい訳ですね。このevaluate .. for B..は「・・を・・に関して評価するつまり、この場合、「新しい壁の設計を、不法入国の防止・阻止の効果向上に関して評価する」、いいかえると、「新しい壁の設計が不法入国の防止・阻止の効果向上につながるのかどうか評価する」という意味になります。また、border barrier design toolkitを「壁の設計リスト」としていますが、toolkitをリストとするのはいささか無理がありますので、「国境壁設計の手段(方式)」等とした方が良いでしょう。

J70
全体に忠実に訳そうという姿勢が感じられ好感が持てました。特に、第三段落のevaluate the new wall designs for improvements in denying or impeding illegal entryは、正確に構文を解釈して上手く訳しています。ところで、忠実に訳そうという姿勢は良いのですが、訳文を削ってスリムにする努力も怠ってはいけません。あれもこれも盛り込もうとすると、どうしてもくどい文章になりがちです。第一段落などではその傾向が表われています。実際の翻訳現場では読者を意識して訳文を作成しなければならず、読みやすい訳文という、一段高いレベルの要求にも答える必要があります。
第二段落でpower and hand toolsを「動力、手工具」としたのは誤訳です。文脈上「動力」は不自然であり、power tools(電動工具)に気付かなければいけません。border barrier design toolkitを「デザインに関するガイドライン」としたのも、何とか違和感のある訳を避けようとした努力は認めますが、toolを「手段、方法」、kitを「ひとかたまり、一式」と解釈すれば(少し大きい辞書に載っています)別の訳が出てくるはずです。ここらへんはもう少し考えてほしかったという気がしますが、まだ英文の読書量が足らないのかもしれません。多くの英文に接すると、見慣れた単語の意外な使われ方や、辞書にはない言い回しに気付くようになります。第五段落のbuilding examples of bothを「コンクリートとそれ以外の材料の両方」としたのも少し書き過ぎですね。これはJ51さんのように、「2社が2種類ずつ完成させる」くらいにしておくべきです。著者は実質、「6つの企業のうち2社が2つずつ作って、全部で8つの試作品が完成した」ことをいいたいのであって、それ以上の情報を付け加えてはいけません。最後に、第7段落の「失踪時間は・・との距離」ですが、「失踪時間」というからには「・・時間」で表現すべきです。ここはJ67さんが「国境を越えて・・紛れ込むまでにかかる・・」と表現して成功しています。確かに原文ではthe distanceと書かれていますが、文脈から判断して整合性のある表現を選択する必要があります。著者は「距離」をイメージしながらそれにかかる「時間」を「失跡時間」と言っているのです。忠実な訳とは、一字一句に固執することではなく、正確に著者の伝えたい情報を書き表す作業と思ってください。

J67
第二段落の「壁を超えようとする・・・耐えられるかを調べる試験」はtested for their resiliencyに対応すると思われますが、くどくなってしまいましたね。resiliencyは「強度」という訳が多かった中、単に物理的「強度」を指しているのではないと考えたまでは良いのですが、いかんせん、説明文になってしまいました。冒頭で説明したように、総合的な「堅固さ」や「耐久性」を表すものと考えて、「堅固さ」、「耐久性」、「丈夫さ」等としたら良かったですね。時には踏み込んで訳すのが必要な場合もあるのですが、ここでは、resiliencyに合わせて短く表現すべきです。第三段落のevaluate the new wall designs for improvements in denying or impeding illegal entryの訳も、「・・効果を高めるため・・評価できるようにすることです」と、長々と書いたわりには、文書としても意味が伝わりにくく、正確な訳にはなっていません。また、第4段落の「声明で述べました」「その他の各種方策」についてですが、これらの語句で、「声明」「各種」をわざわざ言う必要があるのか、少し考えてみてください。英文解釈としては何の問題もありません。でも、読者にとっては「述べました」と「その他の方策」の方が断然すっきりとして読み安いのではないでしょうか。原文を丁寧に解釈するのはもちろん大切な過程ですが、そこからもう一度和文を組み立てる作業がある、と考えてください。J67さんの課題は、もっと訳文を遂行して、なるべく簡潔な文章で原文のアイデアを表現する練習をすることだと思います。英文解釈の実力は、1、2位のJ51, J70とさほど変わらないでしょう。第7段落の「抑止と防止のための投資を・・効果的かを決める」を自分で読んでみてください。果たして何を言いたいのかすんなり頭に入ってくるでしょうか。「どこにお金をかければ最大の抑止・防止効果が得られるかを決定づける・・」等と、少しでも簡潔に書くようにしましょう。J51さんは、ここを、思い切って「どこに壁を建設すれば・・」と、具体的に表現しています。文脈からみてこの部分は壁の建設にかけるお金に言及しているのは明らかですので、これでも良いと思います。

J24
訳文は結構まとまってはいますが、訳語や表現の仕方をもう少し検討する必要があります。まず第三段落ですが、冒頭のThese prototypes will serve two important ends:は、独立文
として訳さなければいけません。ここでは「これらの試作品は・・に役立つ」として、serveを反映しようとしていますが、著者はまず「二つの重要な目的(役割)」を強調したくてこのようなスタイルを選んでいますから、J24さんの訳では、訳抜けと見做されてもいたしかたありません。Design toolkitを「設計に関する知見や能力等」としたのも、抽象的で原文から乖離した表現です。toolというのは広い意味でa thing used in a pursuitであるので、「手段」や「方法」でいいでしょう。第4段落の「登りやすいか登りにくいか」は「登りやすいかどうか」あるいは、単に、「「登りやすいか」だけで十分です。著者が意図的に冗長な表現を選択していると思われる場合以外は、なるべく簡潔な表現にするよう工夫してください。それが「読みやすさ」の第一歩です。第7段落の「最も効果的な投資対象を決定する主な要素」は、この文だけを取り上げると、財務関係の記述かと思わせるような内容になっています。major factor in determining where investments in impedance and denial ですから、「どこにお金をかければ、侵入者を抑止・防止するのに最も効果があるか」という具体的内容を表現しなければなりません。この文に続いて、越境者が国境を越えて民間人の間に紛れ込むまでにかかる失踪時間に言及していますので、この「どこに」というのは、壁を構築するのにお金をかける(投資)場所であり、「最も効果的な投資対象を決定する主な要素」のような直訳は不親切な訳になります。また、最終段落の「性能を向上させた検知技術」(improved detection technology)は、「高性能検知技術」や「先進検知技術」で十分です。improvedは「以前のものより優秀」であることを言いたいのであって、「向上」という言葉にこだわる必要はありません。解釈し難い単語や句が出てくれば、まず、その中心語義を確かめて(これは英英辞典をお進めします)、それから派生語義を検討するとよいでしょう。例文の多い大きな辞書でも解決できなかったら、文脈や背景を徹底して調べてください。すべての単語や句は文全体のテーマや文脈の中で生きてきますので、何かヒントが見つかるはずです。

J40
原文理解度や誤訳の有無に関しては他の最終選考者と大差はないのですが、訳文の表現力
をもっと磨く必要があります。きっちり原文を理解できていても、その情報を分かりやす
く和文で表現できなければ、翻訳者の役目を果たしているとはいえません。まず第一段落
ですが、the public got an up-close look at..を「国民にお披露目された」はちょっと大げさですね。国境の壁は「お披露目」するような好ましい代物でしょうか。また、garnered
coverageを「注目を集めた」としているのも不正確です。coverageは、例えば、オックスフォード英英辞典でジャーナリズム用語としてthe amount of press, publicity, etc.
received by a particular story, person, etc.と定義されています。つまり「記事になった」ということで、「(メディアが)取り上げた」と言わなければなりません。第二段落の「・・評価担当者は・・使用する」は、原文どおりに訳していますが、文脈を考えると、「このテストでは・・評価担当者は・・使用する」としたほうが親切な訳です。不法入国者が使用する手法に対する強度や耐性を調べるために同様な手法をテストで使用するわけですので、原文のロジックを理解した上での訳としては「このテストでは・・」を追加したほうが良いでしょう。第三段落では、evaluate the new wall designs for improvements in denying or impeding illegal entryの部分の解釈があいまいで「・・査定する機会」という余計な語句を付け加えてしまいました。この部分についてはJ70さんの訳を参考にしてください。
また、border barrier design toolkitを「国境壁を機能させるためのツールキット」とした
のは、誤訳に近く、そもそも「国境壁を機能させるためのツールキット」とは何かという
疑問を抱かずにはおれません。コンピューター産業ではツールキットという言い方が定着
していますが、ここでは、「ツールキット」をそのまま使用すると無責任な訳になります。
第四段落の「・・加えられる条件は・・満たすことが必須だ」は、「・・加えられる条件は・・である」、もしくは「加えられるには・・満たさなければならない」とすべきです。主題を表す「・・は」に続く文は係り結びが曖昧になりがちなので注意してください。ちなみに、ここで「条件は・・」を導入する理由はどこにもありません。また、「・・評価担当者は・・駆使する予定だ」は、あたかも評価担当者が壁を突破するのに躍起になっているかのような印象を与えかねません。J51さんのように、「・・評価(テスト)は・・方法を用いて実施される」と、文全体のロジックを汲んで訳すべきです。第五段落では、blend intoを「見分けが困難になりうる」としていますが、ちょっと考えれば「紛れ込む」くらいは思いつくのではないですか。常に、より簡潔で良い表現を探す努力をしてください。訳語を吟味する手間を惜しんでいると、いつまでも「読んでもらえる翻訳」ができないことになります。

毎年審査員をやらせていただいて、その都度、私達の講評がはたして少しでも皆さん
のお役に立っているのか気になります。私としては、できれば、重箱の隅をつつくような
細かい添削よりも、翻訳をどう勉強すれば良いのか、そもそも翻訳とはどういう作業なの
か、といったもっと本質的な問題についてお話したいのですが、コンテストの講評という
性質上、そうもいきません。今は、インターネットのおかげで情報が手に入りやすくなり、
翻訳教室も盛んなようですので、翻訳を勉強する手段は探せばいくらでも見つかるでしょ
う。でも、昔から「急がば回れ」というように、とにかく本を読むという地道な努力が、
翻訳勉強の王道だと、私は思います。「翻訳テクニック」等といったりしますが、そもそも、良い英文と良い和文を読みこんでいる人には「翻訳テクニック」など必要なく、自然に良い訳文が書けるものです。忘れてはいけないのは、良い日本語に接することを怠ってはいけないということです。良い英文と良い和文を読みこんでたっぷり栄養をつければ、ちょっとしたアドバイス、翻訳例の消化が見違えるほど良くなります。皆さん翻訳が好きでこの道を目指していらっしゃるのだと思いますが、ただやみくもに翻訳練習をするのではなく、少し我慢して、たっぷりと読書をしてから、翻訳作業をしてみると良いでしょう。そうすれば私のつたないアドバイスが役に立つかも知れません。