審査員講評 (英日部門)

安達眞弓審査員      石原ゆかり審査員       藤村聖志審査員

安達眞弓審査員

第12回JAT新人翻訳者コンテストにご応募いただいたみなさま、お疲れ様でした。今年の課題は、日英部門の共同委員長であるジム・デイビス氏のご協力のもと、CDCに掲載されたMiddle East Respiratory Syndrome (MERS)の米国での取り組みに関する文書を採用しました。この場を借りてデイビス氏に御礼申し上げます。

CDCという世界的に権威のある組織が発表した文書ですから、作者はメディカルの知識と同様、ライターとしてしかるべき教育を受けていると思いました。普段から英語を読んでいる人にとって読みやすく、明快に論理が示されています。だからでしょうか、今回のファイナリストの訳文はどれも水準が高く、順位を決めるのが本当に大変でした。1位の方は日本語がこなれていること、おおむね破綻なく訳されていることが受賞の決め手となりましたが、まだまだ注意していただきたい細かいポイントがいくつかあります。各人の訳文については後述します。

たかが“Learn more”、されど“Learn more”
 さて、原文に目を通すと、文中にいくつも青い文字があるのがわかります。文字の上にカーソルを置くとリンク先が表示されますね。そう、この文書はたくさんの参考資料を参照するよう求めているのです。リンク先の文書を読んで参考にしてほしいという作者の思いを、翻訳者はどう日本語で表現するか。これを採点の際の大きなチェックポイントとしました。そのかわり、Wordファイル上でハイパーリンクを再現しているかについては不問としました。クライアントによっては、リンク先も翻訳してリンクを貼りなおすことも考えられますので。なにより「リンク先を読んでね」という作者の思いが伝わる訳文であることが大切です。

作者はなぜ“ピリオド”を打ったか
 実務翻訳では正直、英文として(はたしてこれでいいのだろうか)と首をかしげたくなる原文にお目にかかることがままあります。英語が母語ではない作者の英文を訳すことだって少なくはありません。ここにピリオドが打ってあるけど、後ろの文章とつなげたほうが日本語としてこなれた表現になるよね、と、ふたつの文をひとつにまとめると、工夫された訳文として評価されたりもします。ただ、繰り返しになりますが、作者は当該分野のプロであり、英文ライターとしての実力もあります。その作者が打ったピリオドには何か意味があるはずだと思いませんか?
たとえば、
Researchers have found MERS-CoV in camels from several countries. We don’t know whether camels are the source of the virus.
ここをひとつの文にまとめた方が複数いらっしゃいました。最初の文の主語はResearchers、次の文の主語はWe(CDC)です。直訳すれば「研究者は複数の国でラクダからMERSコロナウイルスを発見した。(しかし)CDCはラクダがウイルスの発生源であると断定してはいない」ですよね。ひとつの文にまとめる場合、この(しかし)が読み取れる日本語にし、それぞれの主語を明確にする必要があります。残念なことに今回の上位入賞者も、この主語の違いを明確に訳しきれてはいませんでした。
こなれた訳文の根底には正確な原文の把握があることを忘れずに。これは自戒を込めて申し上げます。

“Level”とあったら警戒する
 MERS and Travel 以下の文章では、MERSの警戒レベルについて述べています。「警戒レベル」、最近よく耳にする言葉ですね。ウイルス感染症はもちろん、最近では日本各地の火山活動の発生時に警戒レベルがいくつからいくつまで引き上げられた、という報道を目にする機会が増えています。火山活動の警戒レベルについての説明は
http://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/kaisetsu/level_toha/level_toha.htm
で詳しく述べています。このように、警戒レベルについては関係機関から必ず情報が提供されていますので、訳す前に確認することをお勧めします。MERSコロナウイルスについては日本旅行医学会http://jstm.gr.jp/がCDCの情報をもとに注意を喚起する情報を公開しています。「ブラジル、メキシコにおけるジカウイルス感染」のページには、CDCが定める警戒レベルについての記載もありますので、ぜひ参考になさってください。

広く浅い知識、そしてコーパス
 翻訳にとりかかる前に参考資料を見つけ、調べ、読み込むことはもちろん大切ですが、普段からテレビ、ネット、新聞などで情報を広く浅く収集することをお勧めします。今、世界で何が起こっているか。翻訳の専門分野にかぎらず、常に好奇心のアンテナを張っておきましょう。ベテランの翻訳者さんで、時間を見つけては購読している新聞を必ず読むよう心がけている方もいらっしゃいます。新聞を購読するのは高い、ゴミの日に出すのが大変というなら、PCやスマホで世界各地のニュースを読めるのですから、せっかくのリソースを有効に活用しましょう。
 広く浅く知識を収集しておくと、普段とは異なる分野の翻訳でも適切な訳語を選んでいるか、いないかのセンサーが働きます。でも悲しいかな、人間には「うろ覚え」というものもありまして、広く浅く積み重ねたはずの知識だけでは歯が立たないことばかり。そこで裏取りのツールとして使えるのが「コーパス」です。コーパスをはじめとする調べ物については、以下のサイトをご覧ください。ブラウザにブックマークし、都度参考にされるといいでしょう。
Research! Research! Research! http://research.blog.jp/ 

 では、個別の講評に移ります。

J2
 センテンスごとに改行を入れたのは、訳抜けをしないよう、丁寧に訳そうという姿勢の表れだと好感を持ちました。ただ、実際の仕事では翻訳のあと、DTPやウェブサイトのデザインといった工程が入ります。もともと段落でまとまっていた文章をセンテンスで切ったまま納品し「あとはよろしく」では、後工程の仕事を増やすことになってしまいます。見直す際に段落ごとにまとめる工程をお忘れなく。J2という番号から、かなり早めにご提出いただいたかと思いますので、あわてず、落ち着いて作業をしてください。
 ファイナリスト5名中、唯一、常体(だ・である調)の訳文でした。広く注意を喚起するための文章では、通常敬体(です・ます調)を使います。常体・敬体の指定はクライアントの指定に従うのが原則ですが、今回のように指定のない場合は翻訳者の判断力が試されます。
 「ウイルス」の「ウィルス」表記をはじめとし、全体的に訳語の選び方が気になりました。まず関連文書を読み込んで、該当する分野で適切な訳語を選んでいるかを確認し、自信のないときはネットで検索するか、コーパスで確認を取ってはいかがでしょうか。

J22
 ファイナリスト中もっとも文章力のある訳文でしたが、致命的な間違いがふたつあったため、正直1位に推していいのか迷いました。まず、全体講評で述べたResearchers have found MERS-CoV~の解釈。ご自分ではきっと主語の違いを認識しておられたと思いますが、読み手にそうは伝わらない訳文でした。次に「下痢、吐き気・嘔吐、腎不全などの消化器症状」、腎不全が消化器症状であるという、事実に反した訳文になってしまったところです。ついうっかりタイピングがすべった――というのはよくあることですので、提出前に必ずもう一度、冷静な目で見直すよう心がけてください。

J35
 J22、J35、J89のお三方は甲乙つけがたく、順位を決めるのが心苦しいとまで思ったほどです。J35の訳文はJ22より若干固いという印象を持ちました。たとえばMERS can even be deadly. Many people have died.の訳文がぎこちなく読めました。「致死的」は一部の論文で使われていますが、あまり一般的なものではありません。広く一般に注意を呼びかける文章ですのでJ22のように「場合によっては死に至る」程度に開いて訳すほうが適切ではと感じました。それから、箇条書きの文末には句点(。)を打ちません。今後気をつけてください。

J71
 全体講評で述べた「レベルX」の訳出にもう少し工夫が必要ではないかと思いました。レベル1を「注意報」、レベル2を「警戒態勢」と訳しており、統一感がありません。「ありふれたウイルス」、「病気の人」という表現は公式文書として適切か、関連文書を読んで考えてみてください。CDC does not recommend that anyone change their travel plans because of MERS.の訳文がふたつありました。消し忘れですね。

J89
 解釈のミスも少なく、好感の持てる訳文でした。難を言うなら「MERSと渡航」のパラグラフで「ことまでは」や「(ドアノブなど)」と、原文にない付け足しが目立ったところでしょうか。読みやすい訳文作りも大切ですが、そこに力点を置きすぎるとサービス過剰になることがあります。できあがった訳文と客観的に向き合う工程をひとつ増やすだけで、こういったミスは回避できます。

石原ゆかり審査員

今回の課題文のテーマは感染症に関するもので、昨今、ジカ熱の世界的流行が懸念されている中、時宜を得たトピックとなりました。ここ数年、この中東呼吸器症候群 (MERS) など、新種のウイルス感染の問題に関する報道が多いため資料も豊富にあり、用語などは比較的調べやすかったのではないでしょうか。医学関連に詳しくないと、気後れした方もいたかもしれませんね。でも、ホームページを見たらお分かりになったと思いますが、この文は米国疾病対策センター (CDC) が一般の人向けに注意を喚起するために書かれたもので、とても平易で分かりやすく書かれており、意外と実は訳しやすかったのではないでしょうか。

そのおかげか、最終選考に残った 5 作品は例年に比べレベルが高く、上位 2 作品を決めるのに審査員一同、頭を悩ませました。最終選考の 5 作品の長所・短所に関しては、安達、藤村の両審査員の講評で細かく指摘されているので、私の講評では、審査の流れや基準、ポイントについて 1 次審査の審査員の方々からのコメントも交えながらお話します。

応募作品は、まず事務関連のチェックを受けます。応募規定にあるように申請不備は失格となります。少しでも締め切りに間に合わなかった作品も残念ながら失格となります。白紙の作品も届いたりしますが、うっかりミスでも白紙の作品の審査はできないので失格となります。実務翻訳ではクライアント側の事情やニーズに合わせ、原稿のやり取りの方法、参照物の使用順序など、いろいろ細かい指定があったりします。プロの世界では、いくら翻訳技術が高くても、きちんと指定に従って納品できないと次からはお声がかからなくなることもあり得ます。こうしたプロジェクト管理のスキルも求められることを覚えておかれると良いでしょう。

無事に審査の対象となった作品は 1 次審査を受けます。作品には番号が割り振られるため、審査員には応募者の名前などの情報は一切知らされません。1 次審査では大きなミス、基本的なミスが多い作品から除外されていきます。減点の対象となる基準は、文や段落単位で英語のまま残っている、原文に対応する箇所が訳文から欠けている、といった訳抜け、誤字脱字 (ワープロの変換ミスに注意)、日付や名前の単純ミス、原文とはまったく違う明らかな誤訳、文が途中で終わっている、日本語の文章として成り立っていない、ぎこちない日本語、不適切な表現、意味が不明もしくは不明瞭である、などです。

こうしてふるいにかけられて残った作品は、再度審査にかけられます。2 巡目も減点の基準は 1 巡目と同じですが、それに加え、直訳、不要な付け足しなどによる原文逸脱、解釈ミス、用語の誤用、意味不明、表現が冗長的である、なども減点対象になります。

1 次審査員からのコメントを以下にまとめました。

・MERS in the U.S の段落: 情報の交通整理ができていない。Since May 2015~の韓国のくだりは、原文に「韓国で MERS が発生した」という明示がないので、そのまま直訳すると韓国は単に一般的な outbreak を調査しているといったニュアンスになってしまう。さらに、次の文の主語 it は、韓国での outbreak なので次の文も呼応が悪く、意味が不明瞭になっていた。

・not recommend that ~because of MERS: 直訳すると意味が不明な文になってしまう。工夫が欲しい。

・Only two patients~の段落: two が only であることに説得力をもたせるためには、原文の語順よりも 500 を先に持ってきた方が良い。また、そうすることで、原文で重複・冗長的な In may 2014 あたりをスッキリまとめられる。そうした「調整」をしている作品は、今回、ほとんどなかった。調整なしに対しては減点でないが、あまりにもモタツキ感や冗長感のある日本語は減点対象。

・その他全体的に今回の原文は英語の 2 文を日本語では 1 文にした方が、フローが良い場合が多い (MERS can even be deadly、Many people have died~など)。1 文にまとめないこと自体は減点にしなかったが、2 文のままで冗長感、「すわりが悪い」感のひどいものは減点とした。

・Because spread of MERS has occurred~their health closely. は直訳調が多く、苦労していたと見受けられる作品が多かった。

・We recognize the potential for MERS-CoV~の解釈。「可能性があると考えている」、「可能性が高い」など、単なる「ポテンシャルの認識」以上の立ち位置になっている。

・減点にはしなかったが、「グローバルパートナー」、「グローバル提携機関」など、カタカナの多用が気になった。

・Outbreak: 「発生」、「感染」だけでは規模の大きさ、危機感が訳出されていない。「突然の発生」(突発性のニュアンスは原文にない)。

・Both traveled to the U.S. from Saudi Arabia~「サウジアラビアからの帰国者」、「旅行者」など、原文にない情報の追加。

・Both cases were among healthcare providers: 「医療従事者間の感染」誤り。among healthcare providers who lived and workedもスッキリした日本語にまとめられていない作品が多かった。

・~is a viral respiratory illness that is new to humansを「人類には未知のウイルス性呼吸器疾患」とするのは誤り。

・frequently touched surfaces: 「ドアノブなど」と、原文にない具体例が追加されている。

・CDC routinely advises ~: Routinely の訳抜け。

・disinfecting frequently touched surfaces: 「頻繁に」の係りミス。

・-括弧で別名を併記する場合、毎回繰り返す必要はないのでは? (MERSコロナウイルス(MERS-CoV))。

・Watch (Level 1), Alert (Level 2): の訳し分け。

と、このような厳選を経て勝ち残った上位の数作品のみが最終審査に送られてきます。審査員が個別に審査を行います。基準は 1 次審査とほぼ同様ですが、この段階に残った作品となると一目瞭然のミスはほとんどなく、それなりにまとまった訳文なので、一文一文、一字一句、正しいかどうか、丁寧に確認していきます。私の場合は、たとえば最初は敢えて原文と照らし合わせず、訳文だけを読んでみたりします。あれ、なんだかここはおかしいぞ、と「つまづく」箇所を原文と照らし合わせると、たいてい誤訳、訳抜け、原文逸脱だったりするので、そこを減点していきます。そうすることで、一見もっともらしく訳してあっても、全体的に論理が合っていないのが見えてきます。その他、原文でミスを犯しがち、訳しづらそうな箇所をどのように処理したか、作品同士で比べたりもします。

1 回で順位がすぐに決まるときもありますが、たいてい日にちを置いて後で見直します。審査中に疑問点が出たら、まず自分で調べ、さらに他の審査員に質問したりもします。順位を決めたらそれぞれの結果を根拠や各作品の長所・短所、気になった点などとともに他の審査員に伝えます。すんなり合意できるときもあれば、そうでないときもあり、合意しても微妙に意見が違っていたりもするので、各人が結果や意見を基にまた見直し、また結果を照らし合わせます。そうしているうちに最終的に 1 位、2 位の作品が決めるのですが、今回は最後まで順位が決まらず、審査の締め切り日ギリギリまで話し合いが続きました。最終的にはいくつか誤訳や用語の誤用などの問題があったものの、日本語が自然で論理も整っていて、読みやすい作品に軍配が上がりました。

日本文として素晴らしくても誤訳や用語の誤用があったら翻訳としては失格ではないのか。はい、確かにそうです。翻訳では正確性は最も大事な要素であると言っても過言ではありません。私もこの点でかなり悩みましたが、他の作品に比べると日本語力の点で大きく勝っていて、この上位 2 作品の誤訳は気づけば直せる範囲なのではないかと思い、最終的に落ち着いた次第です。

私が気になった点を以下にまとめます。

・Studies continue to provide~: To 不定詞以下を結果として訳すか、目的として訳すか。「証明するために研究が続けられている」だと、論理的におかしい。この文は不定詞以外にも無生物主語が悩ましく、つい「研究が続けられている」と受け身にしがちだが、continue to~は continuously のような感覚。continue to~ の表現は、分析結果などでよく使われる表現 (The housing market continues to show strong improvement.)。

・~gastrointestinal symptoms, like diarrhea and nausea/vomiting, and kidney failure: 腎臓がどの器官に入るのか分かっていれば明らかだが、もし分からなくても、カンマの位置に注目すると、gastrointestinal symptoms, like diarrhea and nausea/vomiting が 1 セットで、kidney failure が別であると判断できる。このような並列は技術文書、法律文書のみでなく、製品の特長などのビジネス文書でもよく出てくる。つながりを間違えて、訳で誤ったことを言ってしまわないように要注意。

・漢語の多用: 漢語を並べるだけで読みやすさに欠けると、クライアントから機械翻訳だけに頼っている、もしくは日本語ネイティブが訳していないのでは、というクレームが出ることもあり。ひらがな、大和言葉を使うなどして読みやすさを心がけること。

・訳し過ぎ、主観が入った訳。たとえば CDC does not recommend~を「~することまではしない」、「~するわけではない」と原文にない要素が入った訳がいくつかあった。have been working の意味に「努める」という意味を含めてもよい?。

・global partners: 単に「国際的機関」とすると partner が入らない。

・gastrointestinal symptoms: 炎症とは限らないので「胃腸炎」は誤訳。

・「むかつき・吐き気」は vomit を吐き気ではなく嘔吐としているので誤訳。日本語の「吐き気」と「嘔吐」の違いに注意。

・「合衆国国内」は「合衆国内」で良いのでは?

・It is the largest known outbreak of MERS のknown を「~として知られている」とするのは誤訳。

・「致死的になる」は、日本語として正しい?

・routinely は、advise にかかる。to help protect にかけるのは誤り。

・visit World Health Organization (WHO): 「ウェブサイト」、「ホームページ」などの表現を足すと自然な表現になる。

このほか、看護か介護か、監視か注視か、濃密か濃厚か、など似た言葉の使い分けに注意しましょう。辞書で拾った言葉をそのまま使うのではなく、それぞれの言葉の意味を理解して、文脈上での適切さを考慮するようにしてください。

「重篤な」という表現を使った作品がありましたが、確かに病気の程度を指す言葉ではあるものの、ちょっとドキッとする言葉で大げさなので、この課題文のような一般的な内容に使うのは適していないと思いました。この言葉に関し、国立国語研究所のホームページで記事を見つけたので紹介します (http://pj.ninjal.ac.jp/byoin/teian/)。

「である」調である点は減点の対象にはしていませんが、文章が一般に対し語りかける内容であると考えると、「です・ます」調の方が読者に受け入れられやすいです。実務ではクライアントからの指示がなければ、学術論文や特許、法律文書以外は、たいてい「です・ます」調で訳すのが無難です。

漢字が多用されているのも気になりました。ワープロ機能が発達していて、難しい言葉でも漢字で入力できることが多くなりましたが、場合によっては漢字を使わずにひらがな表記にした方が読みやすいこともあります。常に「読者の視線」です。また、最近はプレゼンテーションやトレーニング用の教材の録音など、訳文が口頭で読まれることもあることもあるので、読みが必要となったり、読み間違えられるおそれがないように、あまり難しい漢字を使うのは避けましょう。常用漢字かどうか、新聞などで使用されているか、読みが一般に知られているか、自分で書けるかどうか、などを基準にすると良いと思います。それから、くれぐれも漢字を間違えないように気を付けてください (「現す」の表記は誤り)。

「Learn more」などハイパーリンクになっている箇所がいくつかありましたが、実務では、リンク先を英語サイトから日本語サイトに差し替えるなどの作業を翻訳段階で行うこともあるため、自分でもワープロソフトなどでのリンクの作り方を理解しておくとよいでしょう。また、HTML、XML などのファイルを扱うこともよくあるので、タグの扱い方も勉強しておくと良いでしょう。また、後の工程で別の人がリンクを付けることもあることを考慮し、付ける場所が分かりやすいような訳をこころがけてください。

次回も力作、お待ちしています。皆さん、がんばってプロをめざしてください!

藤村聖志審査員

  新人翻訳者の皆さま御苦労さまでした。今回はどの訳文にも大きな誤訳が見当たらず、商品価値があるかないかは別として、概ね一定レベルに達していたと思います。その結果、和文作成能力で最終的に差がついてしまいしました。翻訳において一番避けたいのは勿論誤訳ですが、プロとして翻訳成果を提出して報酬を受け取ろうとするなら、訳文表現力は重要な要素です。その点を加味したうえで以下の講評となりました。

J22
  J22さんの訳文には、英文置き換え作業の臭いがしません。英文の伝えている情報を一旦理解した後、それをわかりやすい日本語で表現しています。第二段落の二行目を見てください。この部分で、2位のJ35さんは「・・・このアウトブレイクは・・・MERSアウトブレイクです」と、「アウトブレイク」を二度述べていますが、J22さんは「MERSの発症例としては・・・のものです」と、「MERSの発症例」一度で済ませています。J35さんも解釈は正しいのですが、英文を逐一置き換えながら代名詞「it」の処理に困って「このアウトブレイクは」と持ってきた結果、「アウトブレイク」の繰り返しになったのだと推察します。J22さんは、また、第五段落の「through respiratory secretions, such as coughing」を「咳などをした際に放出される気道分秘物」と、英文に引きずられずに正しく表現しています。他の人は、ここを「咳などの呼吸器(気道)分秘物」としているのですが、「咳」自体が「呼吸器分秘物」ではありません。
さて、J22さんが訳文作成で頭一つ抜きん出ていたことは認めますが、第三段落の「Studies continue to provide evidence…」の解釈では、軽い間違いを犯しています。「continue to provide」のto以下はいわゆる不定詞の目的用法ではなく「つぎつぎとprovideする・・」という結果的用法なのですね。この比較的馴染みのない用法は、J35さんとJ2さんが正しく解釈しています。確かに「立証するために・・続けられています」と読めないこともないのですが、すぐ後に続く独立文「However, more information is needed.」への流れを考えてみてください。「evidence」がつぎつぎと出ているけども(still)「more information is needed」なんですね。また、はっきりとした誤訳というか“チョンボ”が、第四段落の「下痢・・腎不全などの消化器症状」です。「腎不全」は「消化器症状」ではありません。また、この場合「kidney failure」を「gastrointestinal symptoms」に含めたかったら、「diarrhea」と「nausea」の間に「and」は入りません。

J35
  J35さんも、無駄な主語がなく和文らしさが出た訳文ですが、「本邦」、「アウトブレイク」、「合衆国国内」、「常時、注意を促して」などの表現には少し疑問を感じます。「本邦」というのは自意識の強い言葉で、「我が日本国」とほぼ同じニュアンスがあり、他国を指すには違和感があります。「合衆国国内」は「米国内」で充分ではないですか。「常時、注意を促して」は「routinely advices Americans」の訳文でしょうけども、「手を洗ってくださいよー」と常日頃「呼びかけて」いるのであって上から目線で「注意を促して」いるのではないと思いますが。「アウトブレイク」については、医療現場では定着している用語だという意見も伺いましたので、あえて間違いとは言いませんが、私個人としては、J35さんの訳文の中ではお邪魔虫でしかないように感じました。

J89
  J89さんの訳文は全体に良くまとまっていて読みやすいのですが、ところどころに詰めの甘さが見受けられます。第一段落で「2012年・・CDCは・・協力しています」とした後、唐突に「我々は、」と出てきますね。ここは、どうしても主語を出したかったら、いっそ「CDC」としてください。理想的なのは、J35さんのように「MERSコロナウイルス・・ことがわかっており、CDCは・・・」として、文頭の「我々」を避ける形です。J35さんの訳文では後半のCDCを省いても問題ありません。「recognize」は「わかっており」で表現されているので、分脈が整然としています。「我々は・・認識しています」というのは、いかにも紋切り型の文章と思いませんか。第三段落の「一生の間にいつかは感染する一般によく見られるウイルス」は少し冗長ですね。ここを「いつかは感染する一般的なウイルス」としても問題ないと思います。「一生の間」はどこへいったのだ、と文句が出る心配はありません。人間の話ですから、「いつかは」といえば「一生の間」に決まっていますし、何よりも大事なのは、英文が伝えたい情報が日本語で余すところなく表現できれば、なるべく簡潔に仕上げるのがベストであるということです。第六段落の「環境表面(ドアノブなど)」はまずかったですね。「(ドアノブなど)」は完全に付け足しですし、「環境表面」という言い方も誤解のもとです。「touched surfaces」を表現したかったのでしょうが、これは日本語と英語のロジックの違いによるものであり、「触れる場所」という日本語が「touched place (thing)」ではなく「touched surfaces」になるのは「place」という語が持つ広がりのニュアンスのせいで、触るのは物の「表面」であるという厳密なロジックの結果です。日本語では「触れる場所」というのが普通で「触れる表面」とすれば違和感がありますよね。

J71
  J71さんは、不要な漢語を使って文全体が硬くなっている例が多いし、もっと簡潔な現代文に仕上げる努力が欲しかったですね。第一段落の「例えば・・ならびに・・理解するために、・・・国際的機関と協働している」は、「to better understand…」を目的用法と決めつけずに、結果的用法とみて、文章の流れに逆らわず「CDCは・・協力し・・解明に努めています」とした方が良いでしょう。「国際的機関と協働(「協力」が馴染みのある言葉)している」を最後に持ってくると、ここが不要に強調されて、肝心の「to better understand…」の印象が薄くなります。また、「例えば」、「ならびに」は無駄な言葉です。第二段落の「アラビア半島の外」は少し稚拙で、「アラビア半島以外の地域」と実質の情報を表現してください。第四段落の「一部の感染者・・」、「報告も一部の人々からあった」の「一部の・・」といういいかたはなるべく避けて、「・・という人もあった」としてください。「Others reported..」を「報告も一部の人々からあった」とするのは病気にかかった人が報告したような印象を与えます。ここは、J22さんのように「・・も報告されています」と主語を隠して表現するか、人を主語にしたければ、「・・腎不全を訴えている人もあった」としてください。「report」を反射的に報告とするのはプロとはいえません。

J2
  J2さんは、全体に簡潔なのですが、「・・こととしている」、「ところである」、「我々としては」等、不要な論文調表現が多いですね。これはニュース・報告の類ですから、一般読者を意識して、親しみのある表現を使用するよう心がけてください。漢語をたくさん使って「・・である」と書きすすめていくとなんとなく大層な内容をうまく伝えているような錯覚に陥りやすいので、気を付けてください。第三段落の「様々な研究により・・証拠が次々と挙がっているが、・・・必要とされる」は、うまく訳せていますね。第四段落の「下痢、吐き気、嘔吐など胃腸炎」は「下痢、吐き気、嘔吐など消化器疾患」ですよね。第六段落の「さらには」は不要です。第七段落の「渡航注意喚起」は「渡航注意情報」で良いのではないですか。「travel notice」のように、意味は分かっているけど文脈的にぴったりした表現が見つからないという場合が多々あります。そんな時辞書が答えをくれることは期待できませんので、たくさん本を読んで語彙の引き出しを増やしておく必要があります。「健康状況観察」、「接触の回避」、「予防処置の励行」はいずれも「健康状況に注意を払う」、「接触を避ける」、「予防処置を取る」とやさしく言い換えることができます。漢語が悪いというのではありませんが、平易な言葉をなるべく使うことが読者に対する親切であると思ってください。これが、翻訳がサービス業である所以です。
  今回は、私としても、少し主観的な審査になったかなと懸念しています。個人的には、漢語やカタカナをやたらと使わない、平易な大和言葉を駆使した訳文が好きです。これは稚拙な文章という意味ではなく、漢語に頼らない砕けた文章で冗長さを排除しながら作成した文に好感を持つ、という意味です。皆さんも実際に翻訳の仕事を始めればお分かりになると思いますが、漢語が文章の筋肉にはなるものの、全体の骨格は大和言葉でなければ成り立ちません。最近よく見かける「全然美味い」とか「500円になります」とかいう表現も、日本語の粘着性が薄れてきた結果のように思えます。「全然美味しくない」、「500円です」と言わなくなって久しいですが、翻訳のプロになろうと思えば、英文法に負けないくらい日本語の文法にも関心を持ってください。