安達眞弓

JAT新人翻訳者コンテスト英日部門、第18回も無事審査が終わりました。ご参加いただいた皆さん、本コンテストに関心を持ってくださった皆さん、ありがとうございます。

今年はSTEM(科学・技術・工学・数学)教育をテーマに取り上げ、STEMの分野で研究に取り組む、NIST(米国国立標準技術研究所)の若き所属研究員紹介ページを訳していただきました。そこで今回わたしは、科学分野の調べ物と読みやすい訳文作りができるか、さらには知識が生物と物理学のどちらにも偏ることなく翻訳する力があるかを採点の基準にしました。

ERIN LEGACKI, Reproductive Physiologist/Biologist, Material Measurement Laboratory’s Hollings Marine Laboratory

所属する研究所名は研究員の顔とも言えます。ここを丁寧に訳すことから始めましょう。残念ながらファイナリストに残った方々の中にも、単語を置き換えただけなのかな? “パートナー”ってどこから持ってきたの? という訳文が見られました。訳す前に簡単に検索するだけで構いません。Material Measurement Laboratoryはどんな研究所か、Hollings Marine LaboratoryはNISTの中でどのような位置付けにあるかを確認するだけで、読む側が「あ、この記事は信頼できる」と感じ、先の文章を読みたいと思える訳文になります。ここまでの情報はサイトをいくつか読めばわかることです。翻訳の前段階で、調べ物の時間を確保しましょう。

続いてpostdoctoral researcher。「ポスドク」というキーワードが頭に浮かびますよね。ここでまた立ち止まって考えます。NISTのページを訳せと依頼があり、そこで「ポスドク」という言葉を使っていいのか。小説やドラマなら状況に応じて使えます。ただ、今回は使えるか。わたしは使いません。postdoctoralは博士号を取得したということですから、「博士研究員」としたいところです。

Elinが前の指導教員からもらった厳しいコメントは、あまり言葉を足さず、シンプルに訳したほうが重みが伝わります。

第2パラグラフのmentor、訳しにくいですよね。英和辞典を引いてもぴんとこない。そういうときは英英辞書で定義を調べると、新たな視点が得られます。Oxford Dictionaryを引くと“An experienced and trusted adviser.”とあります。博士課程の学生さんにとって、mentorってどういう人?

最近よく使っているのがOnelook(https://www.onelook.com/)というサイトです。単語を入力すると、オンラインで引ける辞書サイトがたくさんヒットします。ここから英英辞書をポチポチ開きながら、しっくりくる表現を探すといいでしょう。

第2パラグラフで気を付けたいのは“understand and better measure the species’ fertility”の“measure”の意味です。第1義の「測定する」に飛びつきがちですが、本当にそれでいいのでしょうか。その前にある動詞“understand”との兼ね合いも考え、「理解してbetter mesureする」とは何かを考えた上で訳語を選びます。ランダムハウス英語大辞典に載っている「(ある基準に照らして)(相対的な力、価値などを)見積もる、判定する、評価する」という語義が適切ではないかと考えます。Erinは「理解して正しく評価する」研究をしているのです。

第3パラグラフでは“become an incredible asset”の訳が気になりました。Erinは研究所にとってすばらしい“asset”……このassetとは? ファイナリストの訳文では「存在」、「人材」、「戦力」と分かれています。assetの意味は皆さんご存じでしょうから、「人」を表す訳語を当てるのが適切ではないかと。「戦力」は工夫された訳だと感じました。

続いて量子物理学者のAlejandra Collopyさんの紹介です。第1パラグラフは前述したとおり、彼女の所属と仕事ぶりを正確に訳せているかをチェックしました。

第2パラグラフは彼女の研究内容について具体的に触れています。量子物理学がわからない方が大半(わたしもです)ですので、Wikipediaなどでおさらいしてから訳すと理解が深まります。

ここで気になったのが“new insights into the universe”のuniverseです。「森羅万象」と訳された方がいましたが、どんな意味か確認されましたか? 量子物理学と森羅万象はどんな関係があるのでしょうか。日本国語大辞典には「宇宙間に数限りなく存在するいっさいの物事」とあります。長年この仕事を続けてきて感じるのは、「日本語のビッグワードは使うと浮く」ということ。「宇宙間に数限りなく存在するいっさいの物事に対する新たな知見が得られる」すごくないですか? ここはシンプルに「宇宙」でいいと思います。この件については他の審査員も同意見でした。

第4・第5パラグラフでは、Alejandraの経歴と研究内容に触れています。Erinの部分と同様、事前に調べ物が必要です。AlejandraはLinkedInのページを作っているので、経歴を確認するといいかもしれません(個人のサイトなのでリンクは張りません)。

第5パラグラフでは“building blocks”の訳出に皆さん苦労されたようでした。先ほどご紹介したOnelinkで調べると、Collins Cobuildでは "If you describe something as a building block of something, you mean it is one of the separate parts that combine to make that thing." とあります。量子演算の信頼性と有効性を高める“building blocks”、つまり基本要素ですね。

この講評を毎年読んでくださってる方なら(ああまた安達が英英辞書の話をしている)と、思われたかもしれません。ただ、毎年こうやって「英英辞書を引こう!」と書いているにも関わらず、訳文を拝見すると、英和辞書の第一語義を拾っただけで終わってるな、と感じることがまだまだあります。自分が選んだ訳語でいいのかと立ち止まったとき、英英辞書を開いてみましょう。答が見つかることがよくあります。ないこともあります。だから翻訳は面白い。

英語で書かれた文章のロジックを読み解く決め手は、やはり英語で書かれた辞書です。訳し終わったら、選んだ訳語が正しいかを国語辞典で確認する。餅は餅屋、ソース・ターゲット、それぞれの言語の辞書で確認すると、訳文が磨かれていきます。もちろん英和辞書を引かなければわからないこともたくさんあります。どんなときに英英辞書を使うか、英和辞書をどう使い分けるか。辞書の使い方、付き合い方については、複数の団体でオンラインセミナーが定期的に開催されていますので、一度受講されることをおすすめします。

来年以降も本コンテストへの挑戦を検討されている皆さん、一度だまされたと思って、課題文を訳す前に、第1回からの講評にすべて目を通してみてください。出題傾向や採点のポイントがわかります。わたしの先輩にあたる石原審査員、藤村審査員は毎回、とても参考になる講評を書いてくださっています。過去の入賞者からも、講評を読んで対策を講じたという声が寄せられています。漏れ聞くところでは、講評を使った勉強会がオンラインで複数開催されているとか。

混迷の時代を迎え、皆さん落ち着かない日々を送っておられると思います。わたしたち現役翻訳者も同じです。新人翻訳者の皆さんの挑戦を来年もお待ちしています。