石原ゆかり
今年もコロナ禍が続く中、無事コンテストを終えることができました。今回も多数の方にご応募いただきうれしい限りです。どうもありがとうございました。
この講評を書いている現在は(2022年3月)、コロナ禍の上に、ロシアによるウクライナ侵攻、各地の災害、人権問題など、毎日世界中でさまざまなことが起きています。近年、フェイクニュースの拡大、浸透が懸念されています。明るい話題としては、夏冬とオリンピック・パラリンピックが連続して開催されました。ソーシャルネットワークのおかげで他国の選手の健闘ぶりを称えたり、選手自身が経験を共有したりと、国境や文化の違いを越えた交流がいっそう盛んになった感があります。私は、政府間や組織間、ひいては個人同士までのあらゆるレベルにおいて、タイムリー、かつ正確で互いの立場を尊重し合えるコミュニケーションこそが世界を支え、人類全体をさらに進歩させるための原動力だと思っています。それを助ける通訳・翻訳という仕事は、ますますその重要性を帯びてきていると言えるのではないでしょうか。
では講評を始めますが、先にみなさんにお聞きします。今回の課題文のテーマ、目的、対象読者は何でしょう。それを知るには具体的にどうしたらよいでしょうか。
まず表題を見てみましょう。STEM、Commerce、NIST、と、さっそく名称が出てきました。これらは何ですか。名称が出てくると日本語で定着している名称を探したいという衝動に駆られがちですが、ここでは敢えてそれをせずにその下の段落に進んでみます。時間もないし、一刻も早く翻訳し始めたいと、心もはやるかもしれません。ここはぐっと我慢です。いろいろ技術用語や名称、口語的な表現も出てきました。これらの用語をメモに取っておきます。意味は分かるけど、日本語ではどうやって表現しよう、と、悩んでしまう表現もメモに入れます。メモに入れるたびに1つ1つ調べないでとにかく羅列します。単語や英訳のテストではないのであとでまとめて調べればよいです。体裁もこだわりません。
ある程度たまってきたら、段落ごとでもいいし、全部読んでからでもいいし、きりのよいところで調べ始めます。NISTは組織ですがホームページを見ると組織の概要などが分かります。あちこちリンクをクリックして閲覧していくうちに課題文に出てくる研究所や技術用語がいくつか出てきました。調べれば調べるほど、いろいろ面白くなって脱線しそうです。こんなことしていたら翻訳する時間がなくなってしまう。そうです、リサーチは時間がかかるものです。そうですね、時間は限られているし、下調べの段階なので完璧さは求めず、ある程度イメージが湧いたら次の用語に進みましょう。翻訳者はその分野の専門家になる必要はなく、この文章を訳すために必要な程度の知識が得られればよいということを念頭に置いてリサーチを進めます。調べても出てこなかったり、日本語の定着している名称がなかったりしたら、少し寝かせておいて、文章を訳し始めてから調べるのもアリです。慣れてくるうちに、どうやったら効果的に情報が得られるか、どの文典から有益な情報があるか、だんだんと分かってきます。プロの翻訳者はこうして数をこなしていくうちに、自然に自分の得意分野を増やしていっているのです。もちろん、最初からその分野の専門の人が翻訳をするというパターンもあるでしょう。しかし、どんな人でもその分野における最新のことをすべて熟知しているということはないですよね。知識が多い方がもちろん強みとなりますが、いかに効果的に正しい情報を入手できるか、このリサーチ力こそが翻訳者にとって不可欠なスキルの1つなのです。
では先の質問に戻ります。今回の課題文のテーマ、目的、対象読者は何でしょう。イメージが掴めましたか。科学技術の用語がたくさんでてきますが、要は科学研究所の女性研究員についての人物紹介文です。会話や口語的な表現なども使って、研究内容だけでなく人柄についても触れ、彼女たちを魅力的に紹介(Showcasing)することで、一般の人々にもっと関心をもってもらい、研究所の支援、後進者、特に女性たちを募って育成していくことが目的です。こうして文章の目的や読者を把握することで適切な文体も分かってくるし(敬体にするか常体にするか、悩みますよね)、一見、複雑そうな文も解明できそうです。NISTや研究所の概要や業務が理解できていれば、Erin Legackiの部分に出てくる「At NIST, she is working~」の部分、訳しやすくなるでしょう。また、ALEJANDRA COLLOPYの部分で「applications」という言葉が出てきます。この言葉だけをインターネットで検索すると「アプリケーション」という訳が出そうです。技術的な内容だから「アプリケーション」で行けるかな。いいえ、行けません。「アプリケーション」は一般にソフトウェア・プログラム(アプリ)のことを指します。ここでは研究の話をしているのでソフトウェアは関係なく、技術の適用、応用という意味が適切でしょう。
これが文脈、コンテキスト、背景を理解した上で訳すということなのです。実務で、原文の背景知識や目的、クライアントの業務などを理解していない場合、用語や表現が正確でなかったり、焦点がずれてしまったりしているのを見かけます。何かの販促資料を訳す仕事であれば、その企業や商品について知識があるか、内部資料か、客の目に触れる資料なのか、などで訳が違ってきます。「measurements」、「Atlantic salmon」(「アトランティックサーモン」は食用が一般的なようです)、「building blocks」など、訳すのに困ったら、いったん原文から離れ、いろいろ調べてみましょう。
続いて、ファイナリスト作品についていくつかコメントします。
J78: おおむね正確に訳されており、「大成しない」、「かねてから」、「言葉を聞き流す」、「研究に駆り立てて」など、自分の言葉で表現しようという努力が見られ、読みやすかったです。ただ、「And thanks to」の「And」は「とはいえ、~」と、敢えて逆接にしなくてもよいのではと思いました。「improve」はこの文脈では「向上」の方が適切です。「宇宙に対する新たな知見が得られる」は、J78さんの実力ならきっともう少し自然に表現できるでしょう。「has become」を「となったのです。」とすると、もうここで完了してしまったように聞こえるので、「なっています」など、現在を強調する方が個人的には好きです。
J51: 「せいぜい~くらいだ」、「目指す人」、「大きな戦力」、「何かを発見するというこの思いが~奮い立たせている」など、いろいろ工夫した訳が見られました。「自身が携わる研究の価値を大きく高めている。[1] 」は、もう少し言い換えをしたらもっと分かりやすい表現になると思います。見出しの最初の「パートナー」。Material Measurement Laboratoryのホームページで「Partnership Facilities」(https://www.nist.gov/mml/partn...)の一覧に入っているので付けたのでしょうか。ただ、原文にない言葉を使うと目立ち、校閲で誤訳と判断される危険があります。実際、私も戸惑いました。特に見出しは語数のスペースの制限もあります。なるべく原文に書いてある範囲で、すっきりと収めるようにしましょう。「NISTでは[2] 米農務省が~」は、彼女ではなくNISTが研究しているように読めました。読点を入れる、語順を変えるなどすると、精度がより増します。
J33: 読解力と表現力は高いと思いました。よく理解できていると思われるところは自然な表現で訳されていましたが、「研究者の道はあきらめるんだね。」「相手との仕事でも」、「にもめげることなく、」など、原文逸脱が気になります。「新たな師と出会った。[3] 」も、それ自体は良い表現なのですが、「出会った」とあるため、続く段落はこの新しい師との話なのかな、と思ってしまいました。彼女が自らの意思で指導教授を変えたというニュアンスが出ると良いですね。原文の枠を超えず、その中で与えられている情報を正確に、読者にとって自然な表現で表す練習をするとよいでしょう。過去の講評で書いたかもしれませんが、訳と原文とを比べて、一語、一語合っているか、というように研究するのも1つの練習方法です。
J39: きちんと理解して訳されている印象を受けました。「志す人」、「研究は10年に及び」、「今はまだ想像もできないような」は良い表現だと思いました。「a world that operates」が抜けていること、Material Measurement LaboratoryとHollings Marine Laboratoryの関係が違っているのが残念です。「~と協働しています[4] 。」は、焦点がぼんやりしてしまっています。ここは「works with」ではなく「works」にポイントが置かれているので「~と共に取り組んで」とした方が正確です。「ここ最近、[5] 」を「ここ最近では」にするなど、ちょっとしたことで文章がさらに読みやすくなります。
J89: 「そして目下の研究対象は」など、工夫が見られます。でも、「Over the course of her career」、「had the chance to study」、「Reliable」が訳されていなかったり、「新たな発見に向けた気持ち[6] は」というようにやや分かりづらい表現や「気質も[FYI7] 手伝って」といった誤訳があったりするのが気になりました。訳す前に原文をまずしっかり理解する、訳語や表現が正しいか国語辞典などで確認する、訳文を声に出して読んでみる、といった練習をお勧めします。
J113: 「動物相手に仕事をするつもりなら」、「志す人たちへ~これだけです」、「現在広く実施されていますが」、「これを発見しようという気持ちが」のあたり、上手に訳されていると思いましたが、「職務の中で[8] 」(careerの誤訳)、「研究しています」(have beenのニュアンスが出ていない)、「信頼性が高く有用な量子計算を行って~されています。[9] 」(分かりづらい)といった問題点があり、全体的にも文章としてまとまっていないという印象です。前述のように、原文をしっかり読んで理解し、それに忠実に下訳をし、何度も校正して、より正確で自然な表現にするという練習を重ねてみてください。
翻訳者は、私情や自身の解釈を加えずに、情報が迅速かつ正確、そして分かりやすく伝達されるようにする、いわば情報の橋渡し役です。その役割をしっかり務めるためには、書き手、読み手の目線に立ち、文脈や背景をよく理解する必要があります。機械で翻訳されただけの文章は文脈や背景が必ずしも正確には反映されておらず、読み手が自分で判断する必要があります。混迷している今だからこそ、高い技術力を持った翻訳者に対するニーズは多く、さらに今後も増え続けることでしょう。「Aspiring Translator」のみなさん、技術を磨き、次回のコンテストにもぜひ挑戦してください。