藤村聖志

  今回の課題はNIST(米国立標準研究所)で活躍する女性の紹介ですが、一人は海洋生物学分野、もう一人は量子物理学分野での研究に携わっています。人物紹介自体はそれほど難しくもなさそうですが、それぞれの研究分野を正確に訳すのに一苦労された方もいたようです。特に量子物理学については皆さん縁がなさそうだと想像しますが、それでも量子物理学の現況についておおまかに調査しておく必要があります。ちなみに「量子コンピューター」はすでに試作段階にあり、近い将来、「quantum entanglement」と言われる電子の同時存在性(これについては話すと長くなります)を利用したスーパーコンピューターが開発されると思われます。こういった量子物理学での研究成果が「offer new insight into the universe」に繋がるわけですが、ここを「森羅万象に対する新たな解釈」等と訳した人もいました。量子物理学の最先端ではアインシュタインの相対性理論と量子論の統合による宇宙論が確立しており、このuniverseは「宇宙」のことだと思われます。「fundamental constants of nature」とは光の速度、プランク定数、光子の重量等といったもので、その計測については量子レベルで考察しなければなりません。このように、あらゆる文献は背景知識という「奥行」を持っています。この「奥行」を適当にあしらってしまうと、表面だけの薄っぺらな訳文ができあがります。面倒かもしれませんが、一字一句をおろそかにしないためにできる限りの努力をしてください。調査にかかった労力は後々の財産になります。それでは個々の講評に移りたいと思います。

J78

  全体的に素直な訳文で、誤訳もなく、私としては特に付け加えることはありません。後はいろいろな分野の文献を読んで対応力を養うと良いと思います。特に自分の苦手な分野の文献を読むことをお勧めします。好きな分野の文献ばかり読むのはバッティング練習ばかりやっている野球選手のようなもので、守備はからっきし駄目、つまり、翻訳の守備範囲が極端に狭い翻訳者になります。プロになって仕事をもらおうと思ったら守備範囲が広いほうが良いですよね。

J51

  J51さんも良くできていますが、「offer new insight into the universe」を「森羅万象に対する新たな知見」と訳していますね。この「the universe」は、冒頭でも説明したように、「宇宙」とするべきだし、「森羅万象に対する新たな知見」は古臭い、大仰な表現になっています。「諸現象にたいする新たな理解」くらいでいいのではないですか。「森羅万象」は辞書から拝借した言い方でもはや死語に近い言葉です。「知見」というのも少しアカデミックな言い方で、乱用するのは禁物です。もうひとつ、Erin goes by the solid mantra…を「・・というモットーがあり、その信念を守っている」としていますが、「モットーがあり、その信念を守っている」は少しくどいですね。「・・信念に従って行動している」で良いと思います。辞書で調べた訳語は使用する前によく吟味する必要があります。いわゆる四字熟語は漢文からきていますので、まとまった意味を持つ反面、文語臭が強すぎることもあるので、注意が必要です。

J39

  J39さんも全体としての訳はまとまっていますが、少し用語の選択に注意する必要がありそうです。まず、everyone she works with can teach her somethingの訳「・・われ以外みなわが師」ですが、少し大げさで古臭い言い方ですね。確かに格言として「われ以外みなわが師」は重みのある言葉なのですが、原文ではeveryone but me is a mentor to meとまでは言っていませんよね。ここは素直に「同僚からは何かしら学ぶものがある」くらいの訳でいいのではないのですか。格言や諺、知っていたら使いたいですよね。でも翻訳の現場ではそれが本当に原文の中で生かされるのか、まず考察する必要があります。次に、a world that operates by the rules of quantum physicsですが、「量子物理学の法則に基づく」でもよさそうですが、実は、ここでわざわざoperates by the rules ofと書かれているのは、原子・分子の世界では古典物理学では役不足だといいたいからです。量子場が支配する原子やその構成要素であるフェミオンやレプトンといった微粒子の世界ではプランク定数を含むエネルギーレベルで粒子の振舞いが記述されます。ここは「量子物理学の法則に支配された」等としてoperates by the rules ofを強調する必要があります。さらに、「could increase understanding of quantum physics…」ですが、「量子物理学の解明がさらに進み・・」という訳も原文と微妙にずれがあります。「量子物理学の解明」といえば量子物理学が全く未知の分野のように聞こえますが、量子物理学は20世紀初頭に確立され現在の物理学は量子論抜きでは語れません。ただ電子の粒子・波動性の定義を含む、既成概念を凌駕する諸問題を孕んだ発展途上の学問分野という意味で、「量子物理学に対する理解が深まり」とするべきです。細かいことのようですが、基本的な訳ができているレベルでは、これらの背景知識を生かした精緻な訳ができるか否かで、訳文納品時の評価が変わってきます。

J33

  J33さんは、全体として読み易い訳文に仕上がっていますが、読み易さのために原文を犠牲にしているような部分が見受けられます。まずtoday’s economy and societyは「経済社会」ではなく「経済と社会」です。また、better measurements of the fundamental constants of nature..は、「基礎物理定数のさらなる高精度化」ではなく「基礎物理定数のより高精度な測定」ですね。最大のミスはThis sense of discovery charges up her team for ..を「新たな発見にむけて・・日々研究に研究を重ねている」とした部分で、charges upの意味が反映されていません。原文が伝えているのは、未知の領域に挑戦する発見の精神がチームの原動力になっている事実であって、前文の記述を受けて「こうした未知の領域への挑戦が原動力となって、彼女のチームは日々新たな研究を積み重ねている」等としなければなりません。This sense of discoveryの処理に困ったのかもしれませんが、こういった場合はThis sense of discoveryが実質的に何を指しているかを理解し、文脈に沿って訳を考えるとよいでしょう。ここでは「分子イオンのトラップ」がdiscoveryに例えられており、それがuncharted territoryなので、discovery=発見に拘らず、「未知の領域への挑戦」として文脈を壊さない訳をした方が良いと思います。常に個々の語義を文脈に沿って考える習慣をつけてください。

J89

  J89さんも、もう少し原文を読み込む必要がありそうです。きれいな訳文を書くことよりも、翻訳者にとっては、著者の意図を粘り強くくみ取る努力が大事です。You will never amount to anythingですが、「・・あなたにたいしたことはできないでしょう。」では少し舌足らずですね。「大した学者にはなれないだろう」ならOKです。Aspiring scientistsを「志の高いこれからの科学者」としていますが、くどい割には原文の意味を伝えきれていません。これはErin Legckiが自らの体験に即してメッセージを送る相手である科学者の卵のことですから、「科学者を目指す人」で良いでしょう。また、Alejandra Collopyの紹介記事の第1段落3行目からのWith their knowledge of …scientists have been …in today’s economy and societyの部分の訳は、「量子物理学から得られた知見によって・・・もたらしてきました」となっていますが、ここでは物理学者としてのAlejandra Collopyの紹介記事なので、With their knowledge of …scientistsを省かずに「量子物理学の知識をもとに科学者達は・・」と原文に忠実に訳すほうが良いと思います。文脈によっては視点を変えて訳しても構わない場合もありますが、ここではいきなり客観的な記述に変えないほうが良いでしょう。また、「offer new insight into the universe」を「世界への理解を新たにするきっかけ」としていますが、ここでは先行記述の内容を十分理解できていない節が見受けられます。「世界」と言えば通常「人間の活動する社会が構成する世界」であり、「世界」と言われて量子力学や物理の世界を思い浮かべる人はあまりいないでしょう。訳文は悪くないのですが、原文を伝えきれていない場面が目立ちます。読み易い訳文と忠実な翻訳態度-翻訳者にとって永遠のテーマですよね。

J113

  J113さんは、原文に引きずられた訳が所々見受けられます。The only way you’ll work with animals is …を「・・ことが唯一の道です」としていますが、「・・するしかない」としたほうが生き生きとした表現になります。また、to help the aquaculture industry …understand and better …を「・・評価するための助けとなっています」としていますが、「・・手助けをしています」の方が簡潔かつ明瞭です。thanks to her ability to …以下では「備え持つ性質のおかげで・・聞き流すことができたので・・」としていますが、これは英語テストの解答のような訳文ですね。間違いではありませんが、読者に対するサービスのない直訳です。「持ち前の気質で・・気にかけることなく」と、さらりと訳したほうが次の文章に上手くつながります。This sense of discovery …以下ではdiscoveryに拘って「これを発見しようという気持ちが・・」という曖昧な訳になっています。もし発見しようとする「これ」とは何かと聞かれれば何と答えますか?文脈に従えば「分子イオンを捕獲する方法(技術)」です。ここでいうsense of discoveryは、そういった未知の研究領域を開拓するチャレンジ精神(あるいは、どうしても発見という言葉を使いたければ、「発見の精神」)を指していると思われます。原文に引きずられた訳文と、原文に忠実な訳文は全く異なったものです。原文に忠実であろうとすれば全体の文脈やロジックを考慮することが不可欠です。一方、原文に引きずられた訳文では個々の単語あるいは句が文脈中で生かされず、ぎこちない、ロジックの破綻した訳文となります。

  今回もまた講評が長くなってしまいましたが、皆さんの1年間の努力の賜物である訳文ですので、詳しく話させていただきました。翻訳の勉強は往々にして地味で味気ないものですが結果を急ぐのは禁物です。英語文献を一杯読んで背景知識を十分獲得してから、翻訳をしたくてたまらないくらいの気持ちになった時点で翻訳課題に挑戦する位で良いでしょう。皆さんの今後の健闘を祈ります。